小林(正弥): ありがとうございました。皆様今お聴きになってお分かりと思いますけれど、このシンポでは、公共的霊性という考え方に従って、あるひとつの宗派の考え方からだけ平和を語るのではなく、様々な観点から平和を語るということで、稲垣先生からはキリスト教の観点、そして島薗先生からは新宗教、新新宗教、あるいは霊性の観点にも触れて頂きました。そして吉田先生には仏教の観点、という形にお願いをしました。

 

では一部の残りの時間では、まずパネリストの方々との間で、できれば二回パネルディスカッションをして、その後、フロアの方々からの質疑応答を行いたいと思っております。

 

今回のシンポのテーマはやはり、スピリチュアリティと平和ということであります。スピリチュアリティという概念は、人によって様々な定義があるのですけれども、私たちはこれを、宗教的なものと、それから必ずしも宗教と呼ばないようなスピリチュアルな観点と、両方含むようなものとして使っております。

 

ここでもう一度、このシンポの全体のテーマである、内面的平和と外面的平和ですね、あるいはスピリチュアリティの観念と平和の関係についてなど、もう少し補足説明とか、自分の独特の観点について、お話して頂きたいことがあればお願いしたいと思うのですが、いかがでしょうか。

では島薗先生お願いします。

 

島 薗: 私が申し上げたかったことを、他の先生方、他のパネリストの方が「公共的霊性」という言葉に即して話してくださった。この公共的霊性ということを小林さんや稲垣さんが提唱しておられまして、あまり文句がないといえばないのですけれど、何かそういうふうにならなきゃいけないのかなあというのが、少し、型が先にあるのかなあ?というのが一つあるのですね。それで、もう一つはですね、そんなにうまくいくかなあということがあるのです。(会場:笑い)

 

それで、こういう宗教はいつも、今までの宗教はうまくいかなかった、あるいは今までのスピリチュアリティはうまくいかなかったので、あ、これだ、というふうにですね、これが宗教とかスピリチュアリティとかあるいは思想というものの特徴じゃないかと。それでそれはそういうものは必要だとは思うのですけれど、やはり覚めて考えてみると中々そうはいかない。何でこんなに対立が起こってきてしまうのか。みんなそれぞれに、ここにこそ鍵があると言ってきたのに、どうしてそうなってしまうのか、ということを考えると、非常にゆるく、我々は理想に向かっていきたいのだけれども、中々そうできないで、地を這うような生活をしているというか、やっとこさ、何とかここまで来たというのが、多くの実感ではないかと思います。

 

そういうところから何かやっていける。そのときに、理想は、あまりこう、はっきりした枠で出て来ない方がいいんじゃないかなあというので、公共的霊性という言葉を、ややもう少し柔らかくしてくれないかなという感じで思っているわけです。(会場:笑い)

 

小林(正弥): ありがとうございます。実はですね、地球平和公共ネットワークでは、「平和への結集」という動きを促進しようと、一生懸命働きかけています。これは、既存の平和運動、あるいは政党も含めて、平和に向けて、ばらばらではとても現在の危機的状況に対応できない。ですから多くのグループが力を合わせていこうということなのですね。

 

その中で宗教的、あるいは霊的な運動というのは非常に重要だと思うのですけれど、実はその中ですらばらばらであるという状況もございます。その意味で、スピリチュアルな領域における、平和への結集も促進したいと思うのですが、今の島薗先生が少し面白い問題を提起して下さいました。これについて、いかがでしょうか。他の方々のご意見として。では吉田さんお願いします。

 

吉 田: 稲垣先生から最初に、スピリットの話を出されたのですけれど、あの話を聴いていると、これは、霊性と言ってもいいのでしょうけれども、むしろ、命ではないかなという気がするのですね。心に限らず、心も、ものもすべて含めた、命の働き、そういうような所がスピリットの元の意味ではないかなあと思うのですね。

 

ルーフというのは、サンスクリット語では、風という意味です。風と息とは通じていまして、「息」をすることによって「生き」る、それこそが、我々の根本の働きなんだというのが、古今東西の話なのですよね。

 

そこを忘れてしまうと、大海ではなくて泡つぶになってしまう。あらゆる宗教が、実は例えばこの私のレジメの最後に書いたのですが、「友になる」、友というのが理想なのですね、「共」にあって「友」である。仏教のですね、弥勒菩薩、マイトレーヤ、あるいはインドのミトラ、それから、マズダとか、ミスラ教のミスラとか、メシアもそうだと思うのですけれど、「友」という意味なのですね

 

我々が待ち望んでいるものは、将来にあらわれて、人類を救ってくれるようなものは、「友」なのだ。みんなが「共」にあって「友」となる。これなんだというのですね。あらゆる宗教が目指しているものは、小さな我から解放されて、生死から解放されて、そして「ホーリー」(holy:wholly)なもの、聖なるものに到達する。「全体」(whole)をひっくるめた、「健全」(wholesome)な姿ですね。

 

仏教では、指月、月をさす指といいますけれど、私は自分の子供に、ほらあれを見ろ、というと、私の指を見るのですね。花を見るのではなく指を見る。われわれはですね、いろんなイズムとか、結局われわれが、罪をおかすというのは、このイズムとか、にエゴにとらわれることなのですけれど、つまり指にとらわれて、その先の真理、月ではなく、指の方、言葉にとらわれる、観念にとらわれてるわけで、この所を考えなければいけないと思うわけですね。

 

霊というと、霊魂とか、すぐ個人的な存在と思ってしまいますけれど、むしろ命とか聖、Holinessとか、聖性といった方がいいのではないか。まあ、できれば何も言わない方がいいのではないか。

(会場:笑)

 

小林(正弥): はい。実は私たちは、自由、平等、友愛の中で、近代、友愛ということを忘れていたのでは、ということで、友、あるいは友愛ということも強調しています。では、稲垣先生お願いします。

 

稲 垣: 最終的には禅の立場でしょうか、何も言わない方がいいと、沈黙。霊の働きは命である。それはまったく私もそのとおりだと思います。三つに、とりあえず、いろいろ出てきた話を私なりにまとめてみますと、私は、対神、または対仏、仏といってもいいのですが、または超越というものに対峙する私というものがあるという意味での、対超越というものがあるというのが一点と、それから、私とあなた、という意味での、対他者、対人、関係ですね。この中にやはり働くスピリチュアリティというのが二番目。で、それからしばしばと出ている、自然との共生とか、いわゆるエコロジーのレベルで、私たちはスピリチュアリティというものをやはり使いますよね。ですから、対自然と、そういうふうな所に働くスピリチュアリティ。3つぐらいに分けて、対超越、対人、対自然。で、これのどれに対しても私は今、人間がスピリチュアルな存在である、ということに、自覚的に関わっていくということがすごく大事だろうなというふうに思っております。

 

共に、ということを、吉田先生はおっしゃいましたけれども、まさに対人関係において、私と他者というものが共に協力する。で、私とあなたとは違う。私は、違いというものがものすごく大事だと思います。同じになる必要はないと思います。私が私自身のこのアイデンティティーを持っている。それに対してあなたはあなたのアイデンティティーを持っているということがとても大事なことで、この違いというものを、あえて一緒、同じ、という必要はないし、してはいけない。しかしながら、共に協力をしていこう。そういう他者に対する愛とか寛容さとか、それがスピリチュアリティの根本にあるというふうに思っています。

 

それから島薗さんから出されてきた、もう少し柔らかくしたら、というそういう議論に対しては、全く同感なのですけれども、やっぱりスピリチュアリティの問題というのは、例えば日本の歴史を振り返っても、60年前は私たちの国は戦争をしていたわけですけれど、そこで出てきたのはある種のスピリチュアリティなんですね。

 

1937年に、国家総動員法という法律が制定される。そのときに、国民精神、総動員、というか、国民霊性をすべて傾けて戦争にあたっていこう、とそういう働きがものすごくあった時代を、私たちはやはり経ているという歴史性は無視できないので、もちろん今私たちがスピリチュアリティといった時に、それを反省した上で、なおスピリチュアリティが大事なんだということを言いたいんですね。

 

ですから最初に私は、国家とかそういうものと結びつく霊性というものが現にあったし、私たちも、いやというほどそれを体験してきた歴史があるので、そこを断ち切った上で、私たちの小さなグループ、それぞれが多様に違うものを持った、そういうふうなグループが寄り集まって、私たちの市民、そして市民社会を形成していく、それぞれの固有のスピリチュアリティをそれぞれが持ちながら、互いに調和して共に歩んでいく、

 

そういう意味のスピリチュアリティー、協力というふうな意味で、私自身は、連帯、友愛、そして協力というふうなこと、さらには、今、隣国との間で問題になっている、靖国問題は典型なのですけれども、やっぱりあそこにあるのは、英霊をまつる、英霊を顕彰するという一つのイデオロギーがずっと日本にはありました。

 

あれはやはり、霊なのですよ、あの問題自身が。ですから、私自身は、やはりアメリカの非常に原理主義的なキリスト教も危うい。その姿を、たえずクリティカルに批判的に見ているのですけれど、同時に足元にあるその日本的原理主義の危うさというものに、私たち自身がですね、やはり気づかなくてはならないのですね。

 

どうも私自身思うのですけれど、今の日本の社会情勢全体を見ていると、あぶなっかしい方向に霊が働いているなあと、そういうふうに思うので、あえて国家とは断ち切れ、とそういうふうなことを言いました。

 

小林(正弥): ありがとうございました。「平和への結集」では、稲垣先生のお話しになったようなこと、例えば、「和して同ぜず」という言葉を強調しています。完全に「同じ」である必要はなくて、お互いに協調しながら、しかし和す。逆に「同じて和せず」は、小人なんですね。「君子は和して同ぜず」という言葉を、あえて強調しています。

 

いろいろ宗教、宗派の間で考え方の対立というのもあるのですが、そこは、宗教間対話ということを強調しながらみんなで一緒に行動していくということを願っています。

 

ではもう一巡ということで、この第一部は、第二部とまた違って、「公共的霊性と地球的平和」というタイトルを付けています。実は問題意識は同じなのですけれども、公共的霊性というと何か分かりにくいという感じがあって、第二部あるいは全体のタイトルについてはどうか、という意見もあったので、第一部のタイトルにしたということなんです。

 

既にこれについては、島薗先生の方からのご意見、あるいは稲垣先生の方からのリプライがあったり、先ほどの初めのプレゼンテーションでも、霊性というのは危ないかどうか、というような議論があったのですね。それで、初めに申しましたように、私の意識としては、このシンポを聞いて帰ることによって、スピリチュアリティということを言ったり語ったりするのは全然危なくないんだと、こういう点に気をつければ危なくないんだということがはっきり分かって、これからどんどん声をあげていこう、というようなことがみんなの中で気持ちが出来ていけば大成功なのではないかなという気がしております。

 

パネリストの方々は、研究者であると同時に実践的な面もお持ちですので、こういった事柄についてご意見やアドバイスを頂ければと思うのですがいかがでしょうか。では島薗先生お願いします。

 

島 薗: すみません、私は、広げた方がいいのだけれど、スピリチュアリティは危ないままだという点でですね。というのは、後からお話になる、すぐ前にいらっしゃる山川さんとか星川さんとかが、こういうスピリチュアリティとか、精神世界とかいうようなことを、分かりやすく日本の社会に広められた頃というのは、本当に新しいもので、非常に希望に満ちていました。

 

しかし少数の人しか興味を持っていなかったということがあると思うのですね。それはもう、本当に先駆的なお仕事で、それでどんどんどんどん、広まってきまして、今はもう本当に、私は根づいたとか地に足がついたとかというのですけれど、スピリチュアリティというのは、言われてみれば、自分のことだというふうに、非常に多くの人が思うようになったと思うのですね。

 

ですから例えば教育というと、今の子供は、大事なことを忘れてない?命の大切さも分からなくなってしまった。とするとそこで、どういうふうに教育を変えたらいいんだろう。たとえば命の大切さ、命。というとそこはもう、スピリチュアリティの世界ですね。それから病院にいくと、お医者さんには何か大事なことが欠けているよね。専門的な体を見てることはしているんだけれど、人間を見ていないのじゃないか。そこにはもう、スピリリュアリティがある。

 

ですからあらゆるところにスピリチュアリティがあって、あるいはスピリチュアリティの必要性が自覚されていて、どこからでも湧き出てくるような感じになっている。そうするとその中には、いろんな、そういうものを、ある立場の団結のために、その方に流れていくとかですね、そうすることにはやや無理がある。自分たちの力を発揮するために使おうと思ったので、別の人と対立しちゃうとかいうようなことが起こりかねない。色んなことが色んな所で起こっているではないかなあと。

 

そういうことを、仕方ないというのではなくて、その公共的霊性の方に水路づけるということが必要なのですけれど、それは、その場その場で色んな形があるので、柔軟に、やっていかなくちゃならないのではないか。その場合には、少し妥協というか、柔軟性というか、曲がっていくのかなというのも、やっぱり、自分だって時に曲がった方に行っても許容してもらえるというような、共にあるあり方。というのが必要なのではないか。そういう気持ちになって帰りたいなというようなことであります。

 

小林(正弥): ありがとうございます。公共的霊性という言葉は難しいですけれど、例えば私は政治哲学、政治学を研究しているのですけれども、この観点から考えると、非常に実は、公共的になるかどうかは非常に大事です。というのは、例えば福祉の問題、教育の問題、平和の問題、環境の問題、こういうことについて色んな政策があるわけですね。

 

こういう政策や法律を作るときに、スピリチュアリティを意識した作り方をするかしないかということで、全然変わってくるのですけれど、スピリチュアリティが公共的になっていなかったら、そのような観点をふまえた法律にできるはずがないのですよね。みんなが「これが大事だ」という気持ちがあって初めてそれにふさわしいような仕組みになる。

 

ですから私はこれが公共的なものになってほしいなあと思います。ただしやはり、日本の現状を考えてみると、オウム真理教の問題は大きいなと思っています、それまではスピリチュアリティーへの関心はかなり盛り上がってきたような気がしたのですけれど、あそこでぺしゃっとなってしまったのではないかなという気がしています。

 

それで私のレジメでは、カルト問題にやはり注意する必要もあると思うので、取り上げています。カルトといっても全部悪いわけではないのですけれど、特に危険なカルトはどういうものかということについての、色んな見分け方なども挙げてありますので、ご関心があれば、見て頂きたいと思っています。では吉田先生お願いします。

 

吉 田: 我々、目を覚ましていない、ということは、お釈迦様だけではなくて、フランスの有名な、フランシス・ベーコン。近代を打ち立てたような人ですけれども、「知は力なり」、と言った人ですね。我々はどういう間違いをしているかというと、4つのイドラがある。

 

要するに、偶像であり、幽霊のように、幻想を持っている、共同幻想を持っている。4つは、洞窟、個人の洞窟ですね。個人のイドラの像ですね。個人、動物。それから、アゴラ、広場ですね。社会が持っているもの。それから、劇場、我々こういう高い所から話すと、いかにもそうだと。ニュースが流れてくると、いかにもそうだと思ってしまう、信じ込んでしまうんですね。偉い人が何か言うと、信じ込んでしまう。

 

第四は、種族のイドラ。人間として我々は、色んな偏見を持っている。人間が一番動物の中で偉い、とかですね。そういうことを考えている。私はここに第五を加えたいと思うのですけれど、シンボルですね、言葉。言葉については、やはり言葉というのは、真理ではなくて、仮の姿。(指月の)指でしかないということをいつでも考えておく必要があるのですよね。だから、心でもいいだろう、精神でもいいだろう、スピリチュアリティでもいいだろうと思うのですが、それに囚われないということが必要、大切だと思いました。

 

もう一つ人間は、特に物があれば、という、考えですね、食べなきゃいけない、住まなきゃいけないということで、物ということにこだわってきました。五千年来、文明というものが築き上げて、ピラミッド、金字塔、まったく金による、三角形の、ピラミッド社会を築き上げてきましたけれども、こういう迷妄を早くかなぐり捨てないといけない。

 

本当の豊かさというのは、心の豊かさですね。物で我々は、妨げられ、奴隷になってですね、見えない世界が心には見えている。やはりこれに行かないといけないし、みんなで共同して何かをやる場合は、やはり、さし、(月を指す)指にあるのではなくて、(目指す所は)争うのではなくて、行動の面で、一緒になって、やれ(る)。これは、殺さないとか、盗まないとか、嘘を言わないとか、そういうことは協同できるわけですから、みんなでこれは守っていったらいいと思うのですね。これは地球倫理です。

 

小林(正弥): ありがとうございます。禅の観点ということで、スピリチュアリティーの関係で思い出すのは、鈴木大拙という、戦前に、日本の考え方、禅の考え方を世界に広げた。この方が、『日本的霊性』という本を書いていて、実は事前の研究会で非常にこの本が議論されました。

というのは、鈴木大拙はそこで、日本的霊性というのは、禅と真宗にあると言って、神道にあまり無いと言ったので、神道の専門である鎌田先生が、それはあるのだと言いました。

 

今日も斉藤さんがそういう話をしてくださいましたけれど、こういうことで、霊性をめぐる宗教間対話というのも非常に重要だと思っています。これは地球的平和について論じた、9月11日以降の会議の大テーマとなった所でして、その意味でも、こういった議論は今後も続けていく必要があるのではないかと思っています。ではこの他、稲垣先生、いかがでしょうか。

 

稲 垣: スピリチュアリティーという言葉が、割と日本語の中に入っていった、これはカタカナですが、一つの経緯に、多分1999年の、WHO世界保健機構における総会で、健康というものの定義をした時に、これが入ってきたと思いますね。身体的、そして精神的、そして社会的、に良い状態、これが健康だと今までいわれていたわけですね、WHOの憲章の中に。1999年の総会で、それプラス、スピリチュアリティーとしても良い状態、ということを付け加えることによって、全体的にホリスティックに、健康というものが人間に与えられる、と、そういう考え方が出てきたと思うのですね。

 

私自身は、その議論というのはむしろ、スピリチュアリティーというのはもっと根源的な所にあって、たとえば身体的、精神的、そして社会的なものに対して、こう働きかけていく、元の人間の根源にあるものだというふうに理解しています。ですからその根源ということであればやっぱり、生きる、病気になって、そして人間はやがて死ぬ、そういう、生、老、病、死、のですね。

 

私自身は、その議論というのはむしろ、スピリチュアリティーというのはもっと根源的な所にあって、たとえば身体的、精神的、そして社会的なものに対して、こう働きかけていく、元の人間の根源にあるものだというふうに理解しています。ですからその根源ということであればやっぱり、生きる、病気になって、そして人間はやがて死ぬ、そういう、生、老、病、死、のですね。

 

特に、病気とか死とかそういう所で、深くやはり人間は自己を見つめ、そして自分がなぜ生かされてきたのかをもう一度振り返り、そして感謝しつつ、死んでくという、そういう人間の根源的な働きですね。

 

悲しみとか、そして喜びとか、苦しみとか。そういうものの根源に、スピリチュアリティーがあると思うので、そうですね、危険とか、そういうふうには私は全然思わない。むしろ大事な概念だ。もっともっと公共の場でこういう議論をたくさんやっていいなと、そういうふうに思っている次第です。

 

小林(正弥): ありがとうございます。先程、オウム真理教事件の話をしましたけれど、考えてみるとあの頃が、スピリチュアリティについての目覚めが非常に広がってきたけれど、まだあの時は、プライベートな領域が多かったかなと。それで私は、このシンポを一つのきっかけにして、これからパブリックな領域に広げていって、スピリチュアリティーへの関心をもう一回盛り返す、盛り上げることができればいいなと思っています。

 

その時にやはり大事なのは、例えば政治学の観点からいうと、「やはりスピリチュアリティというのは、ある宗教の考え方なのではないか。だから他の宗教を阻害するのではないか。まして、日本の国家宗教になってしまうのではないか。」という危惧がありえます。こうなると、それはとても危険だということになります。あえて、スピリチュアリティという一見、危険に思われる言葉を選んだ理由というのは、スピリチュアリティというのはやっぱり、「特定の宗教を超えた何かがある、色んな宗教に共通する何かがある」ということなんですよね。だから、言っていること、あるいは儀式の仕方、等々は表現は違うけれども、そこに普遍的で共通的な何かがあるのではないか。

 

そういう意味では、先程、吉田先生が少し触れられた、地球倫理、いろんな宗教的伝統に共通する、地球的な倫理があるのではないかという観点とも共通すると思っています。

 

( 中 略 )

 

まさにWHOの議論なんかを考えると、公共的霊性、霊性の公共的な認識、広がりというのが、日本内部だけではなくて、世界的にも大きな課題になっていっていることを表すだろうと思います。

 

私はある意味で、オウム真理教事件というのは、正面からこの事件の原因を直視すると、色んな点を学べると思うのですね。

 

例えばもちろんオウム真理教もある意味で、スピリチュアリティを強調していたと思うのですが、手法が非常に暴力的であったということは確かですよね。まさに「スピリチュアリティと平和」というテーマからして、彼らは日本全体を変えようとしたわけですけれど、革命を起こそうとした時に、暴力的な手法を使ってしまった。これは平和的でないという点で、まさに稲垣先生のおっしゃる非暴力的構造と正反対のアプローチであった。

 

内閉化という言葉を使われましたけれど、私のレジメでもこの点を強調しています。組織の内と外を分けていて、外側からの情報を遮断し、内側は規律で固める、これは政治学からみると、全体主義に他ならず、ナチスとか、あるいはスターリンのソ連などでみられた、非常に危険な発想がそこにあったというふうに感じます。

 

ですからこれは全体主義的な霊性です。やはり今日では、近代以来の大きな達成として、人間一人ひとりの自由とか個性とかそういったものが強調されているので、それを前提としたスピリチュアリティでなければ、絶対に公共的なものにはなりえない、危険であるというふうに私は思うわけです。

 

私自身が最近開始した、フィロソフィアというグループでは、プラトン哲学やルネッサンス期の哲学に注意を向けて、これからはスピリチュアルなヒューマニズムというものが大事だと主張しています。人間の個人、個性というものを強調しながら、スピリチュアルな発展というのを達成していくという考え方が大事だということをお話しています。

 

色々と貴重な洞察を、パネリストの方々から頂きましたけれども、フロアの皆さんも、色んなことをお聞きになりたいと思います。時間が限られていますので、申し訳ありませんが、一人1分、せいぜい2分で質問頂きたいのですが、どうでしょうか、どなたが最初に質問されますか。では、お願いします。

 

参加者: 吉田先生がさっき触れておられましたように、結局、人の、物欲、金欲、自分可愛さ、こういった我欲が今、世界中に蔓延しているわけで、それを中々解き放つことが出来ない、縛られてしまっている。これが解消されることがやはり、今起こっているいろんな問題が良くなっていく、非常に重要な、個のポイントだと思うのですけれども、我欲を解き放つということを、多くの人が簡単にできるような方法論について伺います。結局、今までの色んなスピリチュアルな方法論の中で、何かが足りなかったがゆえに、中々それが世界中でできない状態でいる。それについては、どう考えられますでしょうか。何かそういう、新たな考え方あるいは方法論は何かお持ちでしょうか。

 

小林(正弥): はい、ではどうでしょうか。どなたか。

 

吉 田: えー、大変悩ましい質問ですね。仏教というのは、個人が目を覚まさないことには、これを、中々、覚ませ、覚ませと言っても、中々覚ますことができないし、いったん目を覚ましたところで、究極の悟りだなんて、そんなことはあり得ないと、我々業がいかに強いかですね。

 

こうやって体を持っているのも古い業の結果ですから、そして脳を持っているのも、古い業の結果ですから、毎日毎日、毎瞬毎瞬、一人ひとりが、じっと座って、我々の業の働きを止める。体がすぐ動いてしまうのを、かっと怒って殺してしまうのをやめる。口を開かない、心の欲望とかそういうものを止める、そういうことを毎日毎日、何とか日常の生活の中に取り入れていかないといけないし、

 

それはだから今、なるほどそうかそうすれば、業から離れて、我々の観念から、生死の迷いからも離れるんだ、ということがわかれば、だんだん広まっていくと思いますので、この広まるかどうかというのが、今の大問題ですよね。

 

今、あれですよね、色んな情報革命とか、様々な交通も発展しましたし、ぜひ、今までのピラミッド型の社会を変える、先程言った、帝釈網ではないですけれどもインターネットや何かでですね、もはや中央集権ではない、集権をしない、個々人が目を覚まして、それぞれがセンターになる、センターレスセンターというようなものができるように、我々一人ひとりが努めなければならないと思います。

 

小林(正弥): はい、今の質問はおそらく第二部の方でも重要な問題だと思いますので、そちらの方でも必要があればさせていただきたいと思います。

私達の方ではArt of Peace(平和芸術)ということをこのネットワークで強調しているのですけれど、今後、Spiritual Art of Peaceというものも開発してゆきたいのですので、ぜひご協力ください。

 

参加者: いつも少し疑問に思うというか心配なことなのですけれど、今日いろいろお話頂いた先生方とか、この会場にお集まりの方というのは、ある程度、同じようなものを志向していまして、その話も納得できるし、ゆるやかなつながりでもって、一つの新しい方向性を持とうとしていることはすごくよくわかる。僕もそういうものは普段から自分で個人的に発言したりするのですけれど、その時に一番気になるのは、そうじゃない人が当然一杯居るわけですよね。

 

僕らの立場というのは、あらゆるものは共存すべきだということで、受け入れるわけですよ。それでそういう個々の違いを認めながら、「みんなで一緒に仲良く暮らそうと、そういうものが僕らの目指すものだ」という枠組みでいるのはいいのですけれど、そうじゃない側からの「あなた達はおかしいんだ」という意見がよくあるわけですよね。

 

現にこの今の社会システムというものは、このような人達がかなり強い力を持って牛耳っているわけです。それを、「あらゆるものは価値が認められて同じにあっていい」という立場から、それでいながら、そうじゃない価値の人に対して、「あなたの言っていることはやっぱりおかしい」というような、その議論の成り立ち方が、ちょっとよく見えてこない、というのがあるのですけれども。

 

小林(正弥): いかがでしょうか。では稲垣先生。

 

稲 垣: 公共的霊性ということで、公共という言葉を提示しなくてはいけないのですけれども、一つは、異質な他者との、共存の領域だというふうに定義することができると思うのですね。

 

すると今おっしゃったような質問が、まさに公共的な領域、ないしは公共圏で、議論しなければいけないような内容であるけれども、あまり今日は語られなかったと。そういうふうなご質問だと思うのですね。で、もう一つ、公共圏に対して、親密圏という言葉を今導入致したいと思うのですけれど、比較的、コンセンサスが得られやすい、親密な間柄というもので話している時はいいのだけれども、そうではないような、

 

全然違うタイプの、または違う宗教の集団と対峙している、そういうふうなことに私たちはどう立ち向かうべきかということだと思うのですね。で私は宗教とスピリチュアリティというのは関係していると思うのですけれども、例えば、すべての世界の宗教が、今この時点で、歴史性をずっと背負っていますので、同じスピリチュアリティを持っているという、―――――(テープ切れ)

 

参加者: 公共的霊性をキーワードにして平和に向かうという形の考え方というのはよく分かったのですけれど、公共的霊性というのは、自分なりの解釈をすると、周りの人に向かう自我だと思うのですけれど、それというのは、仏教では少し否定されている部分ですよね。無我になって解脱へ向かう方法が仏教では説かれていると思うのですけれど、そうすると、仏教において霊性というのは認められることなのでしょうか。

 

小林(正弥): ありがとうございます。ではもう一人くらいどうでしょうか。

 

参加者: 横浜から来ました。もう年とってますけれど、戦時中というか、敗戦の年に、家も焼かれ、何も焼かれ、全部、失った。友達も何も残されなかった。そういう経験を持っています。それを前提にして言いますと、今日本は、ものすごく豊かだから、大体みんなバランスとれちゃってますからいいのですけれど、アジアひとつ見たって、とてもじゃないけれど、本当に飢餓に悩んでいる人がいっぱいいるはずと思うのですね。そういうことも含めて、公共的霊性というのは、どういう形になるのだろうか、というのが根本的な疑問です。

 

小林(正弥): もう一人だけいきましょう。ではお願いします。

 

参加者: アメリカのブッシュ大統領なんかも、キリスト教でいらっしゃるようで、議会でも宣誓とかやっておるのですが、ブッシュ大統領も、いわば、スピリチュアリティを持っている方だと思うのですが、それがいわゆる公共的霊性、我々の思っている公共的霊性と、どこが違うのか、教えて頂きたいと思います。

 

小林(正弥): はい、色々な質問が出ました。時間の関係で、質問の方はこれで打ち切らせていただきます。最後に、今色々出た質問の中でお答えいただける部分、感想など今日のメッセージとして言いたい部分があれば、順番に話して頂きたいと思います。

 

稲 垣: 今のアジアの現状、飢餓が、日本では全然考えられないですけれども、アフリカ、アジアには、やはりずっと広がっている、そういう現状を踏まえてということですけれど、これは、やはり私は、霊性、スピリチュアリティの非常に大事な面だと思うのですが、そういうものに対して、例えば、ボランティアグループができて、そして彼らと共に、彼らの問題を話し合い、そして援助できるところは援助する、とそういうボランタリーのグループが結成されていく、現に結成されていますけれど、その結成されるところに、私は、スピリチュアリティというものは必ず語られているというふうに思うのですね。

 

ですから、違うタイプで、仏教的なもの、キリスト教的なもの、違うタイプで働くかもしれないけれど、いずれにしても、そういうボランタリーなグループがたくさん出来て、そして国境を越えて、そして共に協力していくというのは、公共的霊性の非常に大事な要素だというふうに思っています。

 

それからブッシュ大統領のことですけれど、アメリカは、キリスト教徒の数がすごく多いのですけれども、公共性、公共哲学という観点から私なりにそれを評価しますと、私的なレベルでの信仰、信仰はスピリチュアリティの表現ですけれど、そういうものが、一人ひとりにあって、それがいきなり私的なプライベートなレベルのものが、公のレベルにどんと上がってきて、で大統領選挙の時にものすごい票の集まり、というふうなことが言われているんですね。

 

公というのは、国家ということです。要するに、大統領を選挙する。大統領というのは国家機関ですから、私と、それから公の、ものすごい隔たりというものが、ここに出てくるわけですね。私が強調したいのは、アメリカではその中間の領域である、様々なボランティアグループとか、そういう公共性のレベルというものが、今ものすごく枯渇しているなあとそういうふうに思うのですね。

 

いきなり大統領にそれを嘆願して、大統領や国会というものが法を制定して、そして、トップダウンにその法の制定によって強制力を発揮して、そしてモラルとかそういうものを国民レベルで上げていこうと、そういう発想自身が、やはり間違っている。やはりこれは、トップダウンではなく、ボトムアップに下から上にモラルを上げていく、そのためには様々なボランタリーグループができて、公共的な活動をし、その中で、互いに声をかけあって、そしてモラルというものを醸成していく、そういう国づくりということをしなければ、これはやっぱり、解決できない。そういう意味での公共性の大事さというのを、ここの所ですごく主張したいのですね。

 

島 薗: いわゆるファンダメンタリズムとか、宗教的ナショナリズム、インドなんかで宗教紛争が起こったり、あちこちで、起こっているのですけれども、その背後には、やはりそういう、発展途上国で日々の生活で、本当に大変な人たちの助け合いのきずなを、そういう宗教が提供している。

 

イスラムは、イスラム同胞団という、現代のいわゆるファンダメンタリズムのもとになるイスラム主義の団体は、昔、労働組合がやっていたような、草の根の助け合いを組織して、例えばパレスチナの、「ハマース」という団体もそうですけれども、そういうことをしているわけです。そういう力は、やっぱり少し、閉じるところが出てきているわけです。ですから、それを考えるときに、我々は豊かな社会で非常にゆとりがあって開かれた関係がむすべる。しかしそれは、それがしかし、そういうことをできるゆとりというものを当然としてものごとを考えてしまうと、逆に今の世界の問題とずれが出来てしまう。そういう豊かさからくるものを享受していることを守ろうとすると、現在の貧富の差から生じている不信を解消できない。

 

ですから、そういう閉じてしまうような霊性が出てくる原因は、むしろ開かれた社会にあるというか、そういうふうな見方が必要じゃないかと思うのです。ですから逆に、閉じた運動の人たちがどういう所で何を訴えたいかということに耳を傾けるというか、そういうようなことが必要ではないだろうか、というふうに思っています。

 

それから、そういうことから言うと、ブッシュ政権にあるような、アメリカのキリスト教、あるいは西洋社会のキリスト教の中に、やはりそういう拡張主義が常にあった、そういうものが相変わらず、イラク戦争において違った形で出てきているということで、何かそれは本当に仏教的にいうと人間の業みたいなものではないでしょうか。仏教もおそらくそういうものを解決できないのだという気がしてなりません。すみません。

 

吉 田: 「我」という問題が出てきましたけれど、もともと我というのは無いのですね。成長するに従って、我、我執、我見というのが出来てくるわけですね。それはしょうがない、業のものだから、何とか座禅をしたり何かしてやめると、あるいは、神というような、絶対者、あるいは無限の命、阿弥陀というのはそういう意味ですね。無限の命といいます。阿弥陀様といいますね。あるいは無限の光、無限の智恵という意味ですね。

 

そして初めて、もう一回作りあげた、あるいは小さな考えを越えるわけですけれど、だから本来は海なのです、自我に死ななければ、永遠の命は得られないというのもそういうことなんですね。我を超越しなければ、決して不死とかそういうものは得られない、その具体的なやり方は、十戒なり、殺さないとか、そういうものを守らなければ、天国には入れない、つまり永遠の命は得られないということなのですね。

 

ブッシュについては、あるいは貧困の問題については、フリーダムというのはみんな誤解していると思うのですね。フリーダムというのは、サンスクリット語で、フリア(プリヤ)ダーマン(priya-dhaman)というのですけれども、フリア(プリヤ)は、かわいいという意味です。ダーマンは領域です。かわいい領域。

 

我々家族の中とか親しいもの同士は、みんな分かり合っている。何か変なこといわれてもみんな分かり合って理解できるわけですね。そういう状況。あるいは馬を競演(調教)するのだって、ゴルフのクラブを振るのだって、みんな分かって、そして体も自分も、心だけじゃなくて、体もちゃんとそれについていって、そして一番親しい状況になるのが、フリーダムです。だから、自分の勝手をやるなんていうのは、とんでもない話なのですね。

 

いくら馬を蹴飛ばしても、馬は言うことをきいてくれません。一緒になって、可愛いがっていってやって、言う事をきかせ?世話をしてやって初めてそこにフリーダムの関係、かわいい領域、愛の領域が出きるわけですよね。これがつまり天国なので、これをすることは、我々、富める国は、富を守るために、軍隊とか戦争をするのではなくて、やはり、富める者は、みんなと分かち合って、そもそもが我々何もない、ゼロから生まれてきたわけですから、そして与えることによって初めて、本当の喜びが出てくるわけですから、笑顔を見る喜び、人の、あるいは一切の喜びは、見え(喜び合え、他者の喜びを喜ぶ)る喜び、それこそ本物の喜びなわけですね。本当のフリーダムを、共にするということになれば、戦争なんかあり得ないわけですよね。無駄な軍隊はやめて、平和で行きましょう。

 

小林(正弥): はい、ありがとうございます。

私からも一言。自己の問題は今おっしゃったとおりと思いますけれど、個を超える、超個というのが、無我につながると私は思っていまして、スピリチュアリティの観点と矛盾はしないと思っています。

 

二点目ですけれども、貧困の問題ですね、これはスピリチュアリティという関心が深まると、おのずと他の人に関心が向かうということで、福祉、国内および国際的な福祉の問題に、議論が高まっていくというふうに期待しています。今日それが無いことが、非常に福祉に対する関心を少なくしているということですね。

 

三点目、どうやって広げるかですけれども、私はやはり多くの人に共通するスピリチュアリティを明らかにし、それが学問や哲学とも両立するということを明らかにしていくことが、これを広げていく大きな方法だろうと思っています。

 

四点目、ブッシュですけれども、宗教的原理主義、キリスト教原理主義がブッシュ自身の信仰、あるいはその背景にあるものです。

 

今日のシンポジウム、実は全国の各地から、本当はぜひ来たいと、後で、映像とか活字を見たいという意見を随分聞いています。

それでは、第一部、若干時間を超過しましたが、非常に熱のこもった、発言と質疑をありがとうございました。

 

会 場: (拍手)

 

アナウンス: ありがとうございました。

 

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

Leave a Reply