上 村: 比嘉さんどうもありがとうございました。

この二部のパネル・ディスカッションですが、スピリチュアルな実践を行っている方ばかりということで、ぜひここで色々知りたいのですが、そもそもスピリチュアリティとは一体何なのか、あるいはスピリチュアルを実践するとか、スピリチュアルに生きるというのはいったい何なのか、それと実際に平和を実現していくというのはどういう関係があるのか、というあたりを深めていきたいのですが、まずは、どうでしょう。お互いにお話を聴きあって、もし感じて言いたいことがあれば、そのことも含めて、最初のテーマ、スピリチュアリティとは一体何ですか?あるいはその生き方や実践はどうして大事なのか?というあたりをお聞きできればと思うのですが、どうでしょうか。

はい、では、星川さん。

 

星 川: 答えになるとしたら、僕は一言で、スピリチュアルであることは自然であることだと思います。日本語ですと、外に見えている木とか海とか山とかを自然と呼びますが、それは一面的です。自分自身の中の内なる自然も、外なる自然と皮膚一枚ごしにつながっていて、内と外の両方の自然を大事にしていくこと、もっと言えば、内と外の自然は一つだと理解することがスピリチュアリティの本質ではないでしょうか。

 

今までのお話を聞いていて思ったこと、特に第一部のお話を聞いていて思ったことが2つあります。一つは、いいお話をたくさん伺ったのですが、どれも昔から語られてきたことばかりで、必ずしも今現在この瞬間のこの地球、この世界に通用するとは限らないのではないかという疑問です。これは、いつも自分自身に問いかけている疑問でもあります。

 

というのは、たとえば日本では60年前にああいう戦争をしましたけれど、そのときも仏教もありキリスト教もあり神道もあり、みな素晴らしい方々がそれぞれの信ずるところを教え広めていたにもかかわらず、ああいう事態を引き起こしてしまった。僕自身は、この宇宙はこの瞬間瞬間、まったく新しい先端にいるので、これまでのことは参考にはなっても頼りにはならないと思っているんです。先ほどお話ししたように、疑うことがとても大切で、今何が必要かというのは、後ろ向きではなく、本当にクリエイティブに、創造的に考えなければわからないのではないでしょうか。

 

それからもう一つは、自我とかエゴ、自己というもの、色々とお話が出ましたけれど、僕自身はこれまで40年くらいそういうことを考えてきて、そんなに気にしなくていいと思っています。そんな大したことではい。自己とは、一つの人間が持っている感覚で世界に向き合ったとき、自然にそういうふうに見えるものであって、それを消すとか落とすとか小さくするとか、がんばればがんばるほど余計おかしくなる。「ディープエコロジー」という考え方を聞いたことがあると思いますが、むしろ自己を拡げていく、世界全体を自己とするというふうなアプローチのほうが納得できます。

 

自己、自我とは何か――僕が自分なりに得た理解をご紹介します。セルロイドの下敷きとか、ステンレスの表面みたいなもの、細かい無数の傷があるような表面を想像してみてください。その向こう側にライトのような光源がある場合こちらからその表面に映して光源を見ると、ちょうどそこに同心円のようなパターンが見えます。

 

それは、たまたま自分の目と反射面と光源が作る関係から生ずる知覚にすぎません。錯覚というのとは違って、はっきりそう見えるんですね。まったくきれいな同心円です。自我とか自己って、ちょうどそれと同じじゃないかと思うんです。ちょっと角度を変えれば、また違うところに同心円が見える。表面の無数の傷から、同心円状のパターンを拾って見ているわけです。それは錯覚ではないし、消そうと思って一生懸命になる必要もない。それはそういうものだと知ってさえいたら、そんなにこだわらなくていい。無理やりがんばって、こだわって、悪いものだから消さなくちゃいけないと力む必要はないし、害を及ぼすようなものでもないでしょう。

 

上 村: はい、ありがとうございました。深い話が出てきましたけれど、他にはいかがでしょうか。

では辰巳さん。

 

辰 巳: スピリチュアリティという言葉を今までは使いたくなくて、むしろ使ってこなかった言葉なのですけれど、スピリチュアリティというものを、つながりあう命の中で、つながりあう関係のなかで、命が生かされている、そういう基盤があってこそ考えられるものではないかと思うのです。またスピリチュアルに生きるということは、何も特別なことではなくて、あるいは遠い所に存在するというようなものではなくて、本当に身近に、足元にあるし、スピリチュアリティのスも言わなければ、平和のへも言わなくても、そういうことを何も口に出さなくても、非常に精神性高くスピリチュアルに生きていらっしゃる方はたくさんいらっしゃると私は思うんですね。

 

この間友人から聴いた話ですが、ある山の中で、おばあちゃんが一人で住んでいて、誰の力も借りずに、90歳になる今も畑仕事をして暮らしてらっしゃる。その方にインタビュアが尋ねたそうです。「そうやって90歳になっても、こうやって、働いて、すばらしいですね。」というと、そのおばあちゃんはなにげもないふうに、「だって働いて生きるって当たり前のことじゃろ。」って答えられたそうです。

そのおばあちゃんは連れ合いの方に先立たれ、ご自分も山の畑作業ができなくなってきて、山を拓いて耕した畑をせめて花の山に戻して御返ししようとされているのだそうです。山と共に暮らし、自給自足に近い暮らしをされてきたおばあちゃんのあり方に、わたしはとってもスピリチュアルなものを感じました。

 

スピリチュアルという言葉が特別なことのように思われてしまいがちなのだけれども、あるいは予言という言葉にしても、先日このようなことがありました。実はテレビ朝日のある番組のディレクターの方から電話があって、ビートたけしさんの「超常現象」という番組の中でホピの予言の映像を使わせてくれないかという話があったのですが、それがどういう目的で、主旨で番組にされるのか、それがわからないと使って頂けないですし、超常現象とタイトルの番組で安易に使われてしまうと、予言を超常現象と捉えられてしまう恐れがあります。そうすると私たちのやっている主旨とまったく違った方向になってしまうので、お断りしました。予言は事の道理を予め私たちに教えてくれているものと私は考えています。

 

それからさっき、自分を明け渡す、という言葉を使ったのですが、真の自分に生きて、自立して生きることもスピリチュアルに通じることと思います。自分だけでは生きられないのですから、必ずつながりの中で生かされている、そういうことが自ずと分かっていくだろうなと思いますし、ネイティブの人たちはそういうことをよくよく知っている人たちだなということを感じてきました。

 

上 村: はい、ありがとうございます。明け渡す、明け渡さないというせめぎ合いみたいなお話もありましたけれど、いかがでしょうか。この辺り、第一ラウンドというか、それぞれのお話を聴いて思ったこととか、スピリチュアリティとは何かとか、或いは、例えば、スピリチュアルに生きなくてはいけないんでしょうか。その辺りはどうでしょうか。

 

山 川: 人は好きなように生きればいいと思うのですけれど、スピリチュアリティというのは、自分が宇宙の一部である、神の一部であると知り、そしてすべてがつながるという感覚がどこかで生まれたときに、自分の人生をすごく大事にしていくということだと思います。それも自分の人生だけではなく周りにあるものを少しでも大事にするようになると思うのですね。そうすると生き方が一瞬一瞬に集中してくるし、食べ物ひとつとってもちょっとづつ考えが深まっていく、思いが深まっていくということではないかと思うのです。

 

それも、一人ひとりのやり方があって自分の好きなやり方でやっていけばいいのです。私はお水のことを考えたいと思ったら、お水を汚さないということにフォーカスしていくという感じです。普通に生きるということを私たち忘れてしまったので、それを少しづついま、思い出しているように思います。それが私のプロセスであったし、今も一緒懸命考えていることではないかと思っています。

 

上 村: はい。ほか、どうでしょう。例えばじゃあ、他の人からもさっき質問があったのですが、スピリチュアリティってなるほど何となくわかるような気がするし、大事だし、スピリチュアルに生きたいなと思う方がもしかするとここには多くいらっしゃるかと思うのですが、そういうことは全く考えもしないし、怪しいし、それにそういうことを全く考えていない人が今の政治や権力をにぎっているという質問があったんですが、そんな中で、このスピリチュアルな考え、実践、生き方、どういうふうに広まっていったらいいのかという辺りを、再度お聴きしてみたいなと感じましたが、いかがでしょうか。

 

星 川: それとは少し違うかもしれませんが、70年代、80年代に、スピリチュアリティに関わる人たちの間で、「闘わないことがスピリチュアルだ」とか、「対立しないことがスピリチュアルだ」という説をよく聴くようになりました。

 

僕はそれは違うと思う。楽しく、仲良く、いわゆる表面的な平和を乱さないことがスピリチュアルなのではなくて、本当に自分自身でありきること、それから本当に自分が感じること、考えることをきちんと追求すること。そして、間違っていると感じることは間違っていると主張して、必要であれば対立もする。勇気をもって対立して、もちろん暴力は否定しますが、色々な形の闘いも必要なんです、この世界には。

 

そうして、自然であろうとする。自然であるものを曲げようとか、壊そうとする力が働くときには、「待て」とそれを止めなくちゃいけない場合もたくさんあります。破壊の力をストップしようとすれば摩擦が起こりますが、その摩擦を恐れずに行動する勇気みたいなものも、スピリチュアリティのすごく大事な要素だと思います。ですから、一般にスピリチュアルというと誤解があって、ふんにゃり柔らかいものではないと思います。

 

山 川: えーと私は割とそのふにゃっとした方をやっている方なんですけれど、(会場:笑)でも例えば石垣島に新飛行場ができそうになったとき、私の友達の山田征さんという方が神様の啓示を頂いて、あそこはニライカナイという聖地なので、絶対に飛行場を作ってはいけないということで、当時の社会党などと組んで反対運動を起こし、空港建設を阻止しているのですね。これは本当にスピリチュアルな行動だったと、私は思っています。

でもそういうことは、いろいろな形で誰にも起こり得ることだと思います。私たちもふにゃふにゃしているみたいですけれど、時々、『アウト・オン・ア・リム』のような本を訳したりしたら、すごく叩かれませんでしたかって聞かれるのです。

 

実際、シャーリー・マクレーンは、『アウト・オン・ア・リム』を書いたばっかりに、アメリカでものすごく叩かれたのですね。宗教関係の人の怒りを買い、論理的な思考しかできない人からは茶化されたりと、ひどい目にあっているのですけれども、でも勇気を持ってひるまずに次々に本を書いてゆきました。私たちは幸い、あまり叩かれた記憶はないのですが、それまでの自分を捨ててその世界に飛び込んでいるのです。夫は大蔵省をやめ、私もそれまでの仕事を全部やめ、一時は収入もあまりありませんでした。でも、自分たちで決心してやり始めました。というか、これしかない、という感じでした。実は、私はスピリチュアリティのこの世界に入るときに、神様と約束したのです。

 

それは、私はチャネリングといって神様からの啓示をもらいながらこの仕事をしてきたのですけれど、最終的には自分が悪魔だったとわかったとしても、自分がいま、正しいと思ったことはやります、神様のお言葉通りに働きます、そして、その結果は自分で引き受けます、という悲壮な決心をしていました。もしかするとその位の決心がなければ、やってはいけないことだったのかもしれない。ふわふわしているように見えるかもしれないけれど、自分の役割を知って、その中で学んでいったという意味では、私はきちんと自分の足場に立って、自分がやらなくてはいけない事をやってきたつもりです。

 

そして、もし町田に軍事基地を作りますなんて言うことになって、もう今実はそうなりそうなのですけれど、それの阻止運動をやりなさいという啓示が来たら、私はやるだろうと思います。でも幸か不幸かそのような啓示は来ないので、(会場笑い)皆様に任せています。

 

上 村: はい、ありがとうございます。

 

山 川: もう一ついいですか?沖縄に私は何回も行っているのですけれども、今度の戦争に関して、今年沖縄に行って、心から皆さんに謝ってきました。日本人の一人として、本土に住む一人として。

 

それは私にとっては、とても勇気の要ったことでした。でも、戦後60年をきりにして日本が新しい出発をするためには、私たち一人ひとりがこの戦争で自分たちがしたこと、たとえ自分が実際に行ったことではなくても、日本人がやったことを、色々な所に行って心から謝ることが、絶対にスピリチュアルな意味で必要なことではないかと思っています。

 

それを今まできちんと行ってこなかったために、日本は今おかしなことになっているのではないかと思うのです。心ある人が、戦争中にご迷惑をかけた場所に行って心から謝り、祈りをささげることがとても大切なのだと、私は初めて気づいたのです。本当にごめんなさいという気持ちです。

 

会 場: (拍手)

 

上 村: ありがとうございます。謝るということはすごく勇気が要ることだし、確かにスピリチュアルな平和運動という感じがしました。

 

話が今もう、スピリチュアリティと平和、あるいは平和との関係に既に入っているのですけれど、この辺りについて、どうでしょうか。

スピリチュアリティというのは平和運動の新たな核になり得るのか、あるいはなり得るとしたらどのように平和運動とか、平和の動きが変わっていくのか。

スピリチュアリティにもとづいた平和のありかた、平和の運動、世界平和の実現、というのは、どのようなイメージをもって、あるいはどのような形になっていくのでしょうか。どなたでもお願いします。

 

比 嘉: スピリチュアリティと平和というと、精神世界で平和をつくるということや、祈るだけでそこに平和をつくるというのは、まずあり得ないと思っているんです。やはり、祈りの中から、現実に実行へ移して、平和をつくることができるのだと思います。でも平和をつくるために大きな声を上げて、こぶしを振り上げてつくるようなものでもないですし、本当に平和を作るということは、人の内にある平和な心の中から、自分の家族、自分の愛する者を愛するように、人を愛する。自分の心を映し鏡にして、相手を思いやる。そういうことから始まると思います。

 

上 村: まず身近なところ、家族から、あるいは人を愛していくということ自体からですね。では星川さんお願いします。

 

星 川: 僕は車の両輪のようなものではないかと思います。車輪が二つでいいのかどうかはちょっとわかりませんが、とにかく平和を作っていくためには、片方で緻密な分析知みたいなものとか、国際情勢の観察とか批判といった理性の働きが必要です。つまり、一方では社会性をシャープに押さえなければいけない。そのためには、先程から私もお話ししましたし皆さんもおっしゃるように、やはり行動が研ぎ澄まされて、的確な行動を取らなければいけません。と同時に、もう一方の車輪として、そのバランスをとるように、自分の内なる自然を大切にすること、あるいは外なる自然との関係を改善すること、それから他の人々との関係にも心を配ることが必要です。一方で行動の車輪をきちんと回しながら、自分が精神的にどういう状態なのか、心のあり方がどうなのかというところでも、スピリチュアルな目でシャープに見ていて、そこでのバランスを崩さないことですね。第一部でも出ましたように、あまりに政治的・運動的なことに偏ってしまうと、暴力革命をめざしたあげく互いを殺し合うようなことになりかねないので、行動という外面のバランスをとる内面のスピリチュアリティが必要なのだと思います。

 

ただし、その二つは別々のものとして両輪の役割を果たさなくてはいけません。くっつきすぎると一輪になって倒れてしまうので、あくまでも別々で、両方のバランスが必要だろうという気がします。

 

上 村: はい、ありがとうございます。

 

辰 巳: 両輪というか二つのバランスという点で、平和運動の中のピースウォークについてお話します。私自身は平和運動をやっているというつもりがないのですが、私は最初にホピの予言の映画に出会って、アメリカにすぐに渡ったわけですけれども、その時にインディアンの人たちによる大地と命を癒すためのランニングがあることを知りました。

それで走るということが彼らにとって自分の肉体を大地に捧げ、自分の足音を鼓動を大地に響かせる、そういう人の祈りの行為であるというふうに聞いたものですから、それならば私にもできると、頭で考えるのではなくて、走るのが祈りであるのならばできるんじゃないかと思いまして、走り、それからピースウォークで歩いたんです。

 

最初60日間歩きまして、あと、イロコイ六カ国連合の中からサンフランシスコに、大陸横断のランニングで走ったのですけれど、その中で思うのは、走るということは、自分の肉体の痛みというものを超えていくわけですよね。

それで、自分の肉体の面での浄化といいますか、それもきれいにしていきながら、そして心もきれいにしていきながら、大地を感じ、自然を感じ、そうやっていく中で、自然とか大地とか風とかっていうものと呼応している自分の存在っていうものを感じていけるわけですね。

 

それが祈りであり、平和の祈りであるということにつながっているのですね。ですから平和運動という中で、ピースウォークというのが、言葉だけでいうのではなく、本当に自分のからだというものが自然と呼応しているのだということを感じることができ、あるいはまた自分の肉体を浄化していくという、二つの側面がそこで経験できるというか、そういうのにおいてはピースウォークというのはとてもいいんじゃないか、という気がしています。バランスが取れているのではないかと思います。

 

上 村: はい、ありがとうございます。山川さんお願いします。

 

山 川: 実は、私がスピリチュアルな世界に気づいたころ、世界の平和を実現することが私たちの目的であり、そのためにいちばん大切なことは、宇宙とつながることだと教えてもらいました。アレキサンダー・エベレットという人がアメリカにいまして、1085年に彼のワークショップに出たときに、

「15年後の21世紀が来るまでに、愛と平和の世界を作るのが私の目的です」と彼が言ったのです。それを聞いたときに、私は、ああ、自分の目的も同じだ、と思いました。

で、彼はどういうふうにしてそれを実現しようとしているかというと、人々に瞑想を教えて、宇宙と自分が一つだという体験をさせる。ようするに、スピリチュアルな目覚めをみんなに起こすことによってそれを実現しようというのが彼の運動だったのです。

 

突き詰めていくと私も同じことをやっているわけです。平和運動というと、デモをしたり、みんなと一緒に運動したりということを思い浮かべるかもしれません。それも一つかもしれませんが、ただ自分の中の平和を広げていく、すべての人とつながっている自分を感じるようになる、それからそういうスピリチュアルなメッセージを伝えていくことも、平和運動ではないかと思っています。そういう意味では私たちも平和運動をしているのではないかと思います。

 

そして、さっきも言ったように、耳を澄ましていけば、そのとき自分が何をやらなくてはならないか、必ずわかるのではないかと思うのですね。あるときは山田征さんのように、反対運動をして権力と戦うことも必要だと思います。

 

私はイラクの戦争が始まる前のデモに一回だけ行ったのですけれど、他の国では100万人くらい集まっているのに、日本で一番大きなデモでも5万人くらいで、ちょっとがっかりしたのを覚えています。デモがあればいいというわけでもないのですけれど、日本のイラク戦争に対する関心度はかなり低いのかなと思ってちょっとがっかりしました。そういう行動も時には大事ですが、やはり自分はすべてと一つなのだ、敵などいないということにみんなが気がついていくことが、とても大事だと思います。それがわかれば、自然と戦争などしなくなるからです。そして、自ずから平和運動もいい方向に向かうのではないかという風に私は考えています。

 

上 村: ありがとうございます。パネルディスカッション、もうあと一つの質問でフロアに移っていきたいのですけれど、本当にそれぞれの方が、辰巳さんの自分を明け渡すから始まり、星川淳さんの子供の頃から世界全体が終わってしまうという危機感をもっていたという話とかですね、山川さんの方からはあなたは誰?あなたは何?という問いに対して、自分があなたが宇宙自身だということを、あるいは魂の存在だということを悟っていったとか、比嘉さんにいたってはただ実践を、神人としてされているという中で、本当にスピリチュアルな実践をされているのですけれど、最後にお聞きしたいのですが、

さっきと似ているかもしれませんが角度を変えて、日本を見ているとあまりにも多くの人が余裕がない、忙しい。情報はたくさん、朝から晩まで仕事、そしてどうしても、今日もシンポジウムがあったりとかね。とにかく忙しくて、余裕がなくて、さっきの話とつながりますけれど、資本主義の中のお金とか色んなことに縛られてしまっている。こういうがんじがらめ、余裕がない中で、このスピリチュアルな実践を始めるためにはどうしたらいいのか。そのあたり、手がかりというか、どうしたらいいのでしょうか。

 

比 嘉: 沖縄では今も旧暦をすごく大事にしています。それで、沖縄のほうでは、行事というとすべて旧暦です。その時々の旬のものを食べたり、自然では、水、野菜、そういうものを旧暦の中では、最初に知ることができます。

祈りというものも当たり前のように日々の生活の中に活用していて、豊作を得られますように、栄えていきますように、家族が安全でありますようにと祈ります。そして水というものが、今は、水道がありすぐ蛇口を捻れば水が出せますが、昔は、瓶を持って、水を井戸まで汲みにいく。沖縄はとくに水には貧しい島でしたから、雨水を溜めたりもしていました。すごく、自然と生活全体が一つだったんですね。暮らし、生活のすべてが自然と密着していました。

 

そこの中で、本当に一人ひとりが自然の中で生きて、そこで互いが思い合っていて。2、3キロ離れた人たちが、ちょっとした怪我をしたら、すぐわかる。常に一人暮らしの人とか遠く離れた人を意識して、見守っている。怪我をしたらすぐ畑を手伝いに行ったり、台風のときには家を直し、協力していた。ですから、私の中では、自然と共にあるには、現代社会にこそ大事なのは、意識的に自然の中を知ること。その時どきの本当の自然を大切にしてゆけば、そんなに心の中で焦らなくても、食べ物はきちんとあるし、お金や物にこだわらなくても、豊かな心で生活ができると思うんです。

 

旧暦とか、自然の中で自然と共に暮らし、そこに一人ひとりが思いやりの中から力を合わせて協力していければ、現実に世界に平和な世界を、少しづつ創ってゆける、心の豊かさをも創っていけるのでは、と思います。

 

上 村: はい、ありがとうございます。

 

星 川: これは答えになるかわからないのですけれど、50半ばぐらいからすごく涙もろくなってしまって、よくわかるようになったのですが、涙はすごく大事だと思うんですね。どういう涙でも、本物の涙なんです。本当に悲しくてこぼれる涙、あるいは何かに共感して流す感激の涙でもいいんですけど、そういう涙は何かしら真実を表していて、同時に涙というのは色々なものをつないでいるんじゃないかなと感じるようになりました。涙を大切にすることが鍵かもしれません。今日はあまり先住民のことをお話しなかったのですが、北米のある部族の諺に「目に涙がなければ魂に虹は見えない」という言葉があります。世界の平和を求め、虹のようにすばらしい世界を願ったり実現したりするには、たくさんの涙を通っていかなければならないのでしょう。

 

上 村: ありがとうございます。

 

山 川: 深呼吸を一日一回でいいからしてください。私たちみんな呼吸をしていることを忘れていて、普段は呼吸がとても浅くなっています。だから深呼吸をできれば一日三回してくださいということ。それから、空を見上げてください。すごく大事なことだと思います。

 

上 村: それだったらできそうな気がします。ありがとうございます。(会場笑い)

 

辰 巳: ネイティブの人たちは、中々スケジュール、タイムテーブルどおりには動きません。英語でいうと、Let it happen、起こることに任せていく。そういうことの進み方をする人たちです。ですから起こっていくことに任せるということは、実際に起こっていくことは本当に私たちの人知を超えたようなことが実際には起こっていくなと私も常々思わされるのですけれど、そうして、起こっていること、今起こっていくこと、その、今、今、今、に生きてるということかな、と。

ただ、今の現実社会では、やはり制約という意味の時間というものがありますので、そういうわけにはいかないんですけれど、本当に今を生きる、起こることにまかせて任せていく、ということをわたしは取り戻したい。

 

それからホピというのは「平和」という意味なのですけれど、謙虚であるということ、忍耐強いということ、それから、やさしさ、ということ、それから、元々自分たちは一つの所から生まれた、ということ、そういうこと全てを含んで、平和とか平和に満ちた人々、と彼らは言っていると思います。

 

ですから、平和ということには、忍耐も大切であるし、謙虚さも必要であるということだと思いますので、それは、自分の足元でまさに実践できることですし、あと、よく最近はスローライフということが言われますが、このスローライフというのも、丁寧に接する、誠実に接する、それから自分の心地よいテンポで接するということも、スピリチュアリティにまさに通じていることだなと思います。

 

上 村: はい、ありがとうございます。何だか、心が痛いような言葉もありましたけれども。

さて、ようやく皆さんの番になりました。

 

参加者: 星川先生は屋久島に住んでおられて、自然の真ん中に住んで自然に沿った生活をしておられるのですが、大都会では、文明世界では、ものすごい勢いで温暖化が進んでいて、今世紀中には、氷が溶けて北極から全部氷が無くなって、それから海流が全部とまってしまって、ヨーロッパはもう冬になり、或いはまったく気候の変動が出てきて、それから海の資源は全部無くなるわけですよね。それじゃそういう世界で我々、自然にあればいいと言っていていいのかどうか、ということをお聴きしたいと思います。

 

上 村: はい、では引き続き、小林先生。

 

小林(正弥): 素晴らしい話ありがとうございました。山川さんの話は非常に印象的で、我々が実際に平和運動と関わっている中で、デモなんかをやるとですね、スピリチュアルな人から、逆にそういうのは精神の波動を荒らすから良くないというような議論がよくありまして、(会場笑い)山川さんからそういうメッセージがあるのはとても嬉しいと思います。それでですね、もし政治とか平和に関して訳されたものやご自身からのメッセージがあれば伺いたいなと思います。

 

それから星川さんのおっしゃることは私の考えとまったく同じなのですけれども、今日は『魂の民主主義』の話が無かったので、少しだけでも皆さんに話して頂きたいなと思います。

 

比嘉さんには、山川さんの方から、色々沖縄について非常に印象的な言葉もありましたので、沖縄の側から、平和に関して、あるいはスピリチュアリティの関係についてメッセージを頂ければありがたいなと思っています。

 

辰巳さんには、私は実は、すぴこんで、「スピリチュアリティの世界に、どんなものがあるのかなあ」と思って行ってみたところ、辰巳さんが、平和憲法についての小冊子も売っておられて、非常に印象的だったので、これはぜひ辰巳さんにお願いしようと思ったんです。それで今日は少しホピの関係で原爆の話が少なかったと思いますけれど、やはり日本の平和運動にとってこれは大事な問題なので、一言頂ければと思います。

 

上 村: はい、ありがとうございます。パネリストの皆様、質問を覚えておいてくださいね。(会場笑い)もう少し後ろの方もいらっしゃいましたね。

 

参加者: ネイティブ・インディアンの生活の話なんですけれど、もう少し聴きたいなと思ったのです。というのは、やはり彼らが平和的な生活ができるというのは、やはりそれを保障した何らかのシステムというかそういったものが、私たちとは違う価値観の中で色々働いているからこそ、心の平和があり、そういう平和な生活ができるのではと思うんですね。

たとえば私なんかが読んだ所によると、ネイティブ・インディアンの人たちは、母系制社会をとっているとかっていう話も聞いたし、そういう、母系制社会やらあるいは例えば財産の相続の問題とか、あるいは、恋愛感情なんかもきっと私たちと違うのかもしれないのだけれど、そういった諸々の彼らの伝統的な文化から平和がもたらされているとすれば、どういう考え方をして、どんな生活を実際に歩んでいるのか、子育てのこととか、少し聞きたいと思いまして、辰巳さんよろしくお願いします。

 

参加者: 第一部の質問の続きになるのですけれども、星川淳さんが、先程一部の方たちのお話はすでに今までされていることで、新しい何かが必要なのだというようなことをおっしゃってたのですけれど、ぜひ、世の中が平和になっていく、新しい何かを、星川淳さん的にはどういったものであるのだろうと考えていらっしゃるのか、お聴きしたいと思いまして、よろしくお願いします。

 

上 村: はいそれでは、手短かに一人ひとりの方、お願いします。準備の出来た方、それでは比嘉さんよろしくお願いします。

 

比 嘉: 先程の戦争に対してですね。うちの母が実際に沖縄戦の戦争は経験していません。逆に、広島で原爆を経験しております。終戦後、沖縄に帰ってきて、住みついた場所に、捕虜収容所がありました。瀬嵩(せだけ:現在名護市)という場所です。そこで生活をして、今の沖縄市の八重島というところに移り住みました。そこはまた、昭和50年代の朝鮮戦争の時代、軍が軍人のための慰安施設の町でした。

 

当時、米軍は、1970年くらいまで人種差別がすごくひどくて、その場所は白人しか入れない慰安施設でした。その当時、黒人は逆に沖縄、あえて言いますと琉球人とか、フィリピン、台湾、その人たちよりも、格下の扱いをされておりました。

白人以外でも、その場所によって、アーミー、エアフォース、マリンと分かれて、区分けされていました。そういう場所で、うちの母が神がかりにかかって、神ごとが始まりました。私も5歳の頃までは、二十歳離れておりました姉が面倒をみておりました。

 

しかし、姉が嫁いで、5歳から7歳まで母と一緒に御神事についてまわりました。それが今の戦跡でよく知られる、南部の鍾乳洞を神びらきして行きました。有名な玉泉洞とか、そういう場所によく連れて行かれました。鍾乳洞に入ると、戦争で亡くなられた方々の遺骨が山のようにありました。洞窟だけじゃなくて、森や畑の中にも遺骨があるのです。そういう場所で私自身、少し霊感が強かったのもあり、その遺骨が、遺骨でなくて、生身の人間として映像として見えることが、何度かありました。突然、ビジョンが入ってきて、たぶん火炎噴射機だと思うのですが、火が入ってきて、死ぬ人の姿とか、いきなり爆音と同時に吹き飛ばされて、逆に自ら死ぬ人とかをビジョンで見てきました。そういう歴史のある沖縄という場所で暮らしてまいりましたので、本当に戦争を語ろうと思ったら5分とか10分とかじゃまず無理です。とても申し訳ないのですけれど、沖縄を語ろうと思うと、色々な思いがありますのでもう少し時間をいただかないと語れません。

 

会 場: (拍手)

 

上 村: 回答時間が短くて本当にすみません。もう少し質問がありますので、じゃあ引き続き答えの準備の出来た方。はいでは星川さん。

 

星 川: 盛りだくさんの質問をいただいたので、本当は一時間ぐらいないと話せないのですけれど、まず何か新しい方法はという質問の答えから――。やはり過去にやったことをよく見ると、次は何をしてはいけないかががわかると思うんですね。で、精神性やスピリチュアリティを語ったり追求したりするときに、日本人として何に気をつけなければいけないかというと、一つは先程から何度も強調されているように、国家に絡めとられるような形での精神性の追求は絶対にやってはいけない。

 

それからもう一つは、アメリカ独立宣言で謳われているように、人間は誰もが生まれながらに平等で、自由で、みんな幸せを追求する権利があるということは本当に、本当に大事だと思います。誰かが特別であったり、誰かが初めからそういう権利を剥奪されていたりということは絶対にない。一人ひとりが対等だということを押さえているだけでも、先の戦争でやったああいう間違いはしないのではないでしょうか。今日はイロコイ民主制の全体像までは語れないと思うのですが、一つだけ北米の先住民と接してすごく強く学んだことは、階級というか階層性の意識を持たない人たちが多い。本当に対等であるというところにしっかり立っている人たちが多いのです。世界各地に色々な伝統文化があるし、理想化や幻想はいけないのですが、北米の先住民は一人ひとりが平等で対等であるというところを非常にしっかり押さえているのが特徴だと思います。

 

一番最近の著作である『魂の民主主義』という本で掘り下げたのは、北米の先住民の中でホピと同じくらい重要な位置を占めるイロコイ人の民主社会です。彼らの言葉で自分たちのことを「ホーデノショーニー」と呼ぶのですが、北米の東海岸で12世紀ぐらいから母系の民主制を確立して、一種の憲法を持って、ずっと平和な社会を築いてきた。武器を木の根元に埋めて、互いに戦争をしない連邦制の社会です。その人たちがアメリカ合衆国ができるときに、たくさんのことを教えながら国づくりを手伝ったのですね。アメリカのデモクラシーっていうのは、半分はもちろんヨーロッパの伝統なのですが、半分はアメリカの大地で生まれたものを取り入れている。それをまた日本が受け継ぎました。一般に戦後の民主主義はアメリカから学んだと思っているわけですが、そのアメリカは白人のアメリカだけがすべてではない。半分ぐらいはネイティブのアメリカから学んで引き継いだものがあるだろうということを書きましたので、関心のある方はぜひ読んでみてください。すみません、長くなりました。

 

上 村: はい、まとめてお答えありがとうございました。

 

山 川: はい、短く。政治問題ですね。私は結構、政治にも興味があります。選挙は必ず行きますし、色々文句も一杯言っていますけれども、自分で活発に動くことはありません。ただ私たちの意識レベルがそのまま政治に反映していくと思うので、政治のレベルも私たちのレベルにあったものが出てきている。そういう意味では政治をもっとよいものにするためには、私たちの意識を高めることがとても大事なことだと思っています。

それとあとはデモなどの運動についてですけれど、意思表示をすることもとても大事ですよね。確かに星川さんがおっしゃるように、それはスピリチュアリティの一部であり、時にはデモに行って、数で意思表示をすることが大事な場合が一杯あるのではないかと思っています。でも残念なことに、スピリチュアリティとは全然無関係な意味で、私たちにその力が無くなっているのが現実じゃないかなと思っております。

 

上 村: ありがとうございます。それでは辰巳さんお願いします。

 

辰 巳: まず、私たちがまず認識しておきたいと思っていることは、やはり母なる地球、そこが私たちの命を本当に産み、育んでいるものなんだということです。その上で、どういうアプローチで科学技術であったり知識を活かすかいうことが重要なんだと思います。

今私たちは本当に二つの世界に住んでいるとインディアンの人たちはいいますけれど、昨日もちょっとそんな話をしたのですけれど、物質主義的に偏った生き方をすると、本当に頭と心が離れてしまうというふうに、ホピの予言の岩絵の中にもそういう絵が残されています。ですから私たちは、頭と心が一つになるように、しかもその上でどういう風に科学技術を使うかというふうなことを、本当にさっきも星川さんがおっしゃったように、両輪のバランスをとるようにして、いかに私たちがバランスをその中でとっていくかということが、今、私たちに必要、問われていることなんだなというふうに思っています。

 

それから原爆のことですけれども、ホピの聖地から採られましたウランによって、アメリカの核開発が進んだわけですけれども、それで結局、原爆というものが長崎と広島におとされましたが、ずっとアメリカの核開発の、ロスアラモスの研究所というものは、プエブロインディアンの土地です。それから、最初の原爆実験地であるアラモゴートのトリニティサイトという場所も、アパッチという人たちの居留地のすぐそばです。それからネバダの核実験場、そこもウエスタン・ショショーニにという人たちの、先住民の人たちの土地です。

 

ですから本当にアメリカにおける核の開発というものが、先住民の人たちの土地とそこに住む人たちの犠牲の上に成り立っているわけですけれども、ウランは、母なる地球の心臓であると。その心臓を取り出してはお母さんは生きていけないのだという、一つの、地球を一つの人間に例えて、生命体というふうに考えています。ですから鉱物を掘り出して使ってはいけないんだ、お母さんは生きていけないんだということを、彼らは言ってきました。それでその原爆が日本に落ち、そして私たちは、原爆というのは一つの、今の物質主義的な社会といいますか、大地から、命っていうものから離れてしまった生き方の、非常にシンボルのようなものかなというふうに私は思うのですけれど、それが日本に落とされたということは、世界の平和というものを考えるときに日本はやはり大きな役割を担っているものだなと思いますし、また私たちが今の日本とアメリカとの関係を考えてもそう思います。

 

ですから私はアメリカという国が悪いと言っているのではなく、アメリカという国のあり方などを通して、私たちの姿をそこにもう一度鏡のように映し出しているものだと思っているので、そこから私たちがどう生きるのかということをもう一度見直したいなというふうに思っています。

あと、母系制の話ですけれど星川さんが話されましたので、また個人的にお話したいと思います。

 

上 村: はい、ありがとうございます。もう少し質問があったと思うので、せっかくですからこちら側のブロックで、ご質問のある人。あれ、増えたんじゃないかな。こっちもいらっしゃいますよね。困りましたけど、それではお名前と手短に質問を一個づつ、よろしくお願いします。

 

参加者: つい最近知ったのですが、今、原爆の話との関連で、丸木美術館というのがありますね。それが今、経済的にやっていけなくて、もう大変な状況にあるという、そういうことに関して、どう思われているか、皆さんにお聴きしたいです。

 

参加者: 山川さんにお聴きします。昔、四谷の木曜会でご夫妻のお話をお聴きしたことがございます。それからずいぶんだいぶ時間が経ったのですけれど、今だに自分が宇宙であるということがわかりません。何かヒントがあればひとつお願いします。

 

参加者: スピリチュアルな生き方は、市場経済とのかかわり方に大きく制約されると思うのですね。ですから、市場経済だけで生きざるを得ないほとんどの人は、中々難しく、それが癒しという形で、ビジネスになりかけている、この状況についてどうお考えになるか伺いたいと思います。

 

参加者: 癌の末期患者だったことがきっかけになって、病院を飛び出して自分で治してしまいました。それから私が大きく気がついたのは、現代の医学はまさにブッシュのイラクやアフガニスタンの抗議と同じだと世界中を応援して歩いています。皆さん誰でも結構です。自然治癒力っていうのと現代医学といったことについて、もしも何かサゼッションがありましたら、お願いします。

 

上 村: ありがとうございます。このブロックどなたかいらっしゃいますか?ではもうこっちも聴いちゃいましょうか。

 

参加者: 現在僕は、痛いという言葉と、死者を悼むときの時の悼みは両方同じ“いたみ”ですけれども、痛みと悼みというものが現代のキーワードだというふうに僕は考えておりまして、その二つのキーワードと、今お話にあがっているスピリチュアリティが、どのように関わってくるのか。なかんずく、Painの痛みのほうはともかく、死者を悼む、つまり死んだ人がいるということを踏まえた平和の構築をしなければいけないということが非常に重要な問題だと思うのです。僕はたまにホームページで叫んでるんです。平和学に死を、と。つまり、平和学に死というものを取りこめないと、いくら公共圏などといっても、パワーオブバランスの、国際政治のバランスだけで議論が進んでしまう。つまり、死をどうスピリチュアリティに関連づけるかということを、どなたでも結構ですので、お伺いしたいと思います。

参加者: さきほど、山川さんからの、深呼吸して空を見上げるということを聴いて少し質問したくなったのですけれど、僕も座禅しながら種をまいて、自分のバランスをとれているんです。それで、せっかくこういうメンバーの方がいるので、皆さんが、やっている、先程の深呼吸のように、日々必ずやっていることというか、実践していることがあったら簡単に教えて頂きたいと思います。よろしくお願いします。

 

参加者: 星川さんの車の両輪という話に大変共感したのですけれども、現在、行動をしている人というのは、ある程度スピリチュアルなことを受け入れやすいと思うのですけれど、その反対に、スピリチュアルなところにだけ興味がある人というのは、行動に移しにくいという傾向があるように私には思えるのです。それで、スピリチュアルにとどまっている人には、行動に移すときに何が足りないのかということを教えて頂ければと思います。

 

参加者: せっかく4人の方に皆さんのお答えが順番に来るということで、ひとつだけお聴きしたいのですが、物質世界では例えば物とかお金とかで豊かさというものを測るわけですけれど、皆さんは何でもって豊かさを測られるかをお聴きしたいと思います。

 

上 村: ありがとうございます。以上でしょうか。もしかしたら時間のことを考えて控えられた方もいらっしゃるかと思いますがその方はありがとうございます。第三部の方でよろしくお願いします。では、非常に時間が限られているので、全部ではなくても結構です。ポイントになるところで、今、心の中にある答えを一言づつよろしくお願いします。では比嘉さんから。

 

比 嘉: 豊かさという質問に対して。先程、私は旧暦の話をしましたが、沖縄でそういう傾向がありまして、本当に自然の中で暮らす生活をしていて、それで、畑に出るとか仕事に出るとき家を全部開けて出るんですね。物や、財政でなくて、本当に人を信頼して、周りの人を信頼して、とくに共存しているっていう意識が強かった。

ですから豊かさというのは、物や金ではなくて、そこであう人との関りあい、そしてそこから本当に自然の中から頂く恵み、そういうものをきちんと味わいながら、自分の体と、そして周りの人たちと心の触れ合いが、本当の豊かさじゃないかと思います。

 

山 川: 私への質問は、宇宙になるにはどうしたらいいかという難しい質問なのですけれど、座禅をくんでもいいし瞑想をしてもいいし、感じるときは感じるんじゃない?みたいな感じで、どうしたらいいかは私もよくわかりません。その人それぞれの時があるのではないかと思います。感じなくてもいいじゃないっていうのが答えではないかと思います。あとは、豊かさとは心の平和だと感じています。

 

星 川: さっきの質問とも関係があるのですけれど、自然をよく見る、知るということはとても大切です。よく「屋久島にいられていい御身分だね」なんて言われるのですが、それはちょっと違います。屋久島にいると、都会で表われるよりずっと早くからたくさんの兆候が見えて、その地球の色々な状態、つまり苦しさというか、おかしくなっていることがよくわかります。僕などはまだまだほんのちょっとしか自然を知りませんけれど、やはり外なる自然も内なる自然も本当の意味の自然を学ぶことですね。先程の方へのお答えになるかもしれません。本来は自分の中の自然も外の自然もつながった一つの自然ですから、その自然をよく感じて知っていく、学んでいくことで、その自然をどうしたらいいかということも、また自然にわかってくるのではないかと思います。

 

辰 巳: 難しい質問ばかりなのですけれど、まず毎日実践していることは、私は、大体毎日、ちゃんと教えてもらったわけではないのですけれど、丹田呼吸をしています。しっかり吸って、しっかり吐く。ゆっくりと吐ききる。そういうことを毎日やっています。

それは毎日行うというのは、やはり体を整えるだけではなくて、自分の意志というものを養うということにつながるように思うので、毎日決まったような時間にきまったことを、何でもいいんだと思うのですけれど、それを続けるということは、自分を鍛えていく、自分の意志も鍛えていくプラクティスではないかと思います。

 

それから、何をもって豊かさとするか、というお話なのですけれど、私はそれを聴いて、じっくり考えると色々出てくるのでしょうけれど、今出てくるのは、それは、感じられる、ということ。あらゆる色んな人の感情であったりとか、自分自身の感情であったりもするし、自然の移ろいであったりもそうなのですけれど、自分で感じられる、様々なものを感じとれるということが、豊か、ということを、印象としてそういうふうに思いました。

あとは、丸木美術館が今、経営的に成り立っていかないということなのですけれども、そういうことを私も全然知らなかったのですが、やはり、自分と今、もう60年も経って、自分自身のことと原爆ということがつながらない、自分とはつながっていないことと思っている方が、やはり多いのでしょうね。

それで、60年前のことなのですけれども、まず私が出きるなと思うのは、やはりまず身近な人、すぐいつもそばにいる人でなくてもいいんです、たまたま一緒にすれ違った人でもいいんです、でもその人と、痛みをその時一瞬かもしれないけれども、私たちは分かち合ったり感じ合ったりすることができるという実感日々の中で持てるようなことがあったら、それがどんどんイメージとして広がっていって、遠くにいる人とか、60年前に起こったこととかにも、その想像力が広がっていくのではないかなと、私自身はそんなふうに考えています。

 

上 村: はい、皆さんどうもありがとうございました。第二部まとめている時間もなくて申し訳ありませんけれど、今日素晴らしい報告、あるいは意見を分かち合ってくださいました、パネリストの皆さんに、もう一度大きな拍手をよろしくお願い致します。

 

会 場: (拍手)

 

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