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第1部のパネリストに出席しました稲垣久和です。

私も島薗先生とまったく同じ感想で、皆様から多くの学びと示唆を頂きました。関係者の方々に厚くお礼申し上げます。
さてその上で二つのことを特に私自身の今後の課題としてメモ的にしたためておこうと思いました。時間がないので本当にメモになってしまいますが。
1.スピリチュアリテイと平和が深く関係する分野であることが実感できたと同時に、この平和が内面的平和にやや傾斜していたのではなかっただろうか、という疑問です。
もちろん内面的平和がなければ外面的平和もないしそのような平和は意味あるものとも思えないのですが、少なくとも近代以降は、いや核兵器出現以降は、「戦争をしない」という意味での外面的平和をいかに形成するかが市民レベルでも大きな課題となってきていたはずでした。
したがってMLでも多くの方が市民としての政治参加がどのようにしてできるのかを盛んに議論していました。今回は、あえてこの面をセーブしたのか、この政治参加のレベルの平和運動の面がうまくスピリチュアリテイと絡み合っていなかったように思いました。私の事例で出した「マーテイン・ルーサー・キング」はこの点で内と外の平和運動が調和した典型的な例だったのですが(きくちゆみさんはコメントして下さいましたが)。

2.それと関係してスピリチュアリテイが公(=国家、政府)と結びつくことの危険性もたびたび申し上げたのですが、そしてそれが今、私たちの目の前に首相や閣僚の靖国参拝として存在しているのだということも申し上げたのですがあまり関心にはならなかったようでした。
これはあとで懇親会のときにお話していて気がついたのですが、靖国参拝問題は政治問題であってスピリチュアリテイとは直接関係ないと皆が受け取っているということのようでした。
もちろんこの問題は複雑で歴史認識や過去の戦争の評価にも関係してはいるのですが、しかしそれにしてもこの問題はスピリチュアリテイと平和(戦争)に深く関係しているというのが私の認識でありましたから。

3.フロアーからの質問者(イソップ氏?)から「自分たちとは全く異なるスピリチュアリテイを持った人々がいるときはどうなのか」と問いただされ、これが必ずしも親密でない他者との共存を求める公共哲学の本来の課題である、と思った次第です。私の答えは「対話するしかない、そうでなければ暴力になる」というものでしたが、上の2はこれとも関係しているようです。

ということでこんなことが私自身の課題として残されました。
感想とお礼まで、ありがとうございました。

<追記>
川西様
下記の点、まったく同感です。
「日本で受け入れられるスピリチュアリティーは心の平和であって、あまり社会性がありません。
それが癒しになってしまう一因でもあると私は思います。
宗教にしても同じで、心に平穏をもたらすものだと思われているんですね。
だから、「社会に向かう宗教」というのはなかなか理解されません。
心と社会との間に大きな壁があるのです。
内面の世界が閉じているんですよ。
これをどう乗り越えて「友愛」に向かうかが、これからの課題ですね。
一つには、スピリチュアリティーの中で言葉をもっと重視していくこと
ではないでしょうか。」

今後の課題は「社会に向かうスピリチュアリテイ」ということになるでしょう。もちろんこれが愛国心にならないように細心の注意が必要ですが。ムードで押し流されていくと怖いのです。だからやはり「言葉、対話」であり、自立した自我からの批判的社会参加ということになるでしょう。
批判的社会参加とはいっても、ここで大切なのが自分と異質な他者を受けいれ連帯を育む「友愛」です。これがフランス革命の自由(liberte),平等(egalite)と並ぶ fraternite とは異なるところなのです。
fraternite は語源からしても「友愛」というよりも「同胞愛」であり、これが強烈な同化作用をもった愛国心につながってしまった理由です。ここでの友愛は「隣人愛」「慈悲の心」「仁の心」のことであり、どうしてもスピリチュアリテイから湧き上がってくる国境、宗教を超える人間の人間らしさだと思う次第です。
これがフランス革命型とは異なる今日の21世紀型の市民社会の大きな課題でしょう。そういう意味でシンポでは日本人、ヤマトンチュ―以外の米国、オランダの方がたからも発言があったのは実に素晴らしいことでした!
今後に持続可能な平和運動になることを大いに期待します。

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