石田憲「社会科学から見た議論の要点」(千葉大安保法制シンポ)
集団的自衛権 石田憲「社会科学から見た議論の要点」(千葉大安保法制シンポ) はコメントを受け付けていません
以下に掲載するのは、2015年7月23日(木)に千葉大学で開催された「『安全保障関連法案』について考える緊急シンポジウム」における石田憲氏(法政経学部/政治学)の発言です。発言を起こしたものをご自身のチェックを経て、こちらに掲載をいたします。
今回、私の方からお話しする内容は3つの点に絞らせて頂きます。
第一に、私の主張は一年前の千葉日報の記事(2014年7月2日)でほとんど言い尽
くされています。一年前に閣議決定をした時点で、この問題はすでに明確になって
いるからです。ここにいらっしゃった方でも、集団的自衛権は必要だと思われる方
もおられるかもしれませんが、これほど重要な議論は、まず憲法を変えるというプ
ロセスを経なければいけない。これが問題の根幹にあります。こういうことを閣議
決定で決めてはいけない。
ですから、集団的自衛権に賛成か反対かではなくて、手続きの問題として、これ
を閣議決定、さらに法律の策定だけで、集団的自衛権を認めるということ自体が、
最初の段階から間違っている。だからこそ憲法学者の人たちも、違憲だと言い始め
た訳です。これが法案として通ったとしても、通ったら負け、通さなかったら勝ち
だけの問題ではない。そもそも、決め方自体が、立憲民主主義の根幹を自ら掘り崩
すことになってしまうのです。
今の与党の人たちが未来永劫ずっと与党であり続けられるなら別ですが、この問
題は与党の人たちにとっても、自らに返ってくる深刻な事態を招くことになりま
す。何故なら、もしも、これで政権交代がまた起きたとします。そうなったら閣議
決定で、憲法解釈をまた変えていいということになる。そうなれば、法律の安定性
や、立憲主義というものを守ることはできない。少なくとも政治学に携わっている
人間から見れば、これが何より一番重要だと言わざるをえないのです。
第二に、集団的自衛権とはそもそも何なのかということは、本当は一時間くらい
講義しないと難しいのですが、一応これの歴史的経緯だけを簡単にお話します。集
団的自衛権という概念は古くからあるものではありません。これは国連憲章によっ
てようやく出てきたものです。かつて同盟という形で、国際政治は勢力均衡という
フィクションの元に動かされてきましたが、それは決して平和への道に通じなかっ
た。これは第一次世界大戦でも、第二次世界大戦でもそうでした。
そこで、同盟というものがもたらした危険を意識して、国連憲章では同盟という
言葉ではなく、集団的自衛権という言葉に置き換えようとしたのです。しかも、言
葉を換えただけでなく、二国間同盟の焼き直しではいけないと、従来の内容にも変
更を加えようとしました。特に国連憲章ができる直前に、チャプルテペック協定
で、二国間ではない、地域的な集団的自衛権を意識した議論がされていました。だ
からこそ、初期の段階では、集団的自衛権を条約上規定したものは、圧倒的に複数
国家の地域的な安全保障のシステムになっていたのです。ところが、それがいつの
まにか、どんどん拡大解釈されて、地域的性格も無視し、従来の同盟に近い、完全
な域外派兵まで正当化するようになってしまった。
そもそも、最初の時点で集団的自衛権を厳密に議論しようと試みていた経緯を理
解する必要がある訳です。仮に集団的自衛権というものが認められたとしても、東
アジアの地域的な領域であるのならば、まだそれは歴史的経緯に沿ったものになる
のかも知れません。しかし、複数の主体を含み込んだ地域的枠組みを最初から無視
していくのは、本来考えられた趣旨にも反すると言えましょう。日本では最近、
「日米同盟」という言葉が全く違和感なく使われていますが、そもそも「日米同
盟」という言い方自体が、すでに退行的な表現の仕方であることを意識しなければ
なりません。
それでは第三に、大学の中でこういう話をするということは、どのような意味が
あるのでしょうか。たとえば教員であるにせよ、あるいは大学院生や学生であるに
せよ、こういう話をすると、なにか「色がつく」というふうに考える方がおられ
る。自分は中立的でありたいとか、政治の色がつくのは嫌だというように思われて
いるのではないでしょうか。しかし、かつてマックス・ヴェーバーが価値中立性
(『職業としての学問』岩波文庫などでは価値自由という言い方ですが、ここでは
分かりやすく中立性という言葉を使っておきます)を考えた際には、自分がある判
断をするとき、必ず何らかの価値に基づいて判断せざるをえないと言う訳です。つ
まり、それは何らかの態度を選択しない限りは、ある事柄を判断することができな
いのです。
それでは、客観性や中立性を担保するためにはどうすればいいのかというと、自
分が一つの判断を下す、自分がこういう価値に基づいてその選択をしたのだと自覚
することこそが、その価値を相対化する可能性につながるとヴェーバーは言いま
す。それは、例えば18歳の選挙権を導入しながら、高校で一切の政治的議論や政治
動を認めない、などというのに無理があるということでもあります。他方で、教
科書に政府見解を入れろと圧力がかかる。政府によって見解が変わることはいくら
もありますから、そんなものは中立でも何でもないはずです。ところが、自分たち
に都合の悪いものは「色がついている」と排除しながら、自分たちに有利になる場
合は、圧力をかけてでも通してしまう。
そうではなくて、自分が主張する内容は、必ず何らかの価値に基づいて議論をし
ているのだ、但し、自らを相対化することによって、他者の価値も認めるし、自分
の価値もきちんと客観的に伝えていくことが重要なのです。それこそがまさに、政
治教育というものの基本と言えましょう。それを脱色して、自分は全く何の色にも
染まっていませんなどという議論は、そもそも社会科学の中では考えられません。
少なくとも、大学で政治の問題を考える際には、以上の前提が不可欠になると私は
考えています。
fm @ 8月 28, 2015