公共哲学と『平和への結集』――民党連合の必要性
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「公共哲学」とはなにか
「公共哲学」という言葉はどういう意味を持っているのか。ひとつの意味は、なんらかの公共性に関する哲学ということ。公共性という言葉はいろんなところでいま用いられている言葉で、メディアとかスポーツとかで問題があるたびに「公共性」が果たされているのかといった言い方がされる。政治的な問題でも教育基本法や憲法改正の自民党案などでは、公共性の関わる部分は重要なポイントになっている。「公共性」という言葉をどう考えて、どういう公共性を実現していくかということが大きな議論の柱になっている。だから、日本の公共哲学の運動では、「望むべき公共性を実現するための哲学」という意味が強い。ふたつ目の意味として、とくにアメリカや海外でいう「パブリックフィロソフィー」というときの「パブリック」とは、「フィロソフィー」が「パブリック」ということになる。プライベートな、一部の人に閉ざされた哲学ではなく、多くの人々に公開され共有されている哲学。人々が公共的に知り、それによって行為する考え方という意味が強い。ただ、海外の場合を含め、「パブリック」な「フィロソフィー」だから、大学で専門家にしか分からない難解かつ専門的な哲学ではない。そういう哲学では多くの人々に共有されることにはならない。多くの人々に分かりやすい言葉で語って、その意味を持ちうるような思想というもの。哲学的な中身も、「哲学」といえば、日本では難解なイメージがあるが、「知を愛する」というこの「愛智」の語源から来るように、人々に共有されるという、そのわかりやすさ、コミュニケーションしやすさというもののことだ。
ひとつのポイントは、「新しい公共性」を実現するということだ。日本の戦前は、公機関に動員されて戦争をおこなうという滅私奉公の考え方があった。こういう考え方が最近復権しつつある。他方で戦後では、逆に滅公奉私という状況だ。これは戦後国家が規定されて、個人が優遇される、個人の私的な考え方や生き方が重視される反面、公的なことについて考えない人たちが増えてしまったということだ。若い世代などでは、「私」だけを考える考え方。趣味の世界に引きこもるとか、自己利益を追及する利己主義、ミーイズムを招いている。そういう発想が社会運動とか政治運動の衰退を招いている。それにより権力が自分たちのやりたいことをおこないやすいようにしてしまっている。
滅私奉公と滅公奉私の双方が問題を孕んでいる。戦前とは逆にミーイズムが蔓延しているから、もう一度滅私奉公に戻ろうというネオナショナリズムの動きを生んでいる。その双方を打開するために、「活私開公」ということを提唱している。私を滅ぼすのではなく、それを活かして、開いていくということ。そうすることにより、私を公に開く。活私開公ということをスローガンのように用いている。「活私」のこの「私」が悪くすると、エゴイスティックなプライオリーという方ととられる危険があるので、「活己開公」という表現したりすることもある。
さらに、この考え方と連動する重要な発想として、「私」と「公」を媒介する「公共」という概念を重視している。「公」という言葉は、日本の文脈では、「国家」とか「官僚」の「官」と同じような概念として使われる伝統が強くある。日本の「おほやけ」という言葉は、もともとは大きな場所とか、大きな家、そういうところからきている。古代の共同体の段階では、首長、あるいはその周辺を指す。それが大和朝廷の段階で、天皇家やその周辺の公家を指すようになり、さらに武家政権では、武家を指す。こういう形で歴史的に使われてきた。公家は「公」と書きますし、「ご公儀」という幕府を指す言葉もある。これは中国の「公」という言葉をあてながら、日本の「おほやけ」というもともとの意味をいろんな形で表現してきたということ。そして、近代においては、パブリックの概念が入ってきたが、これを「公的」と翻訳した。けれども、この日本の「おおやけ」や「こう(公)」という概念には、国家とか官僚という国の権力を表す、非常に強い意味がある。それが日本という国民国家をこえて表される。国民国家のなかの天皇制を含んだ権力について使われるのが「公」という概念。だから「公共事業」というときには、お上が決めておこなう事業というような意味になる。
他方で、中国の「公」の概念は、儒教の文脈では、「天」とか「倫理性」という意味が強く用いられていて、なかにはそういう公の規範から、国家権力、たとえば昔であれば、皇帝とか王朝が批判されて、伝統的な革命につながるということもありうる。
また、ヨーロッパのパブリックという概念も、国家や官のことを表すこともあるが、同時にコミュニティーに関わる人々全員を指すということもある。「パブリック」というのは「公衆」といった多くの人々を指す。権力ではなく人々、そういう意味が強くある。
同じ概念として使われることもあるが、「おおやけ」と「こう(公)」それから「パブリック」という言葉は、それぞれの違いをもっている。で、この考えるべき「公共性」の「公共」というものは、もちろん国家や官ではなく、人々が水平的に議論して決定をおこなうという、そういう新しいいわゆる市民的な公共性のあり方であろうと思っている。
もうひとつこの「公共性」の概念について、空間的な観点で考えた場合、ガバナンスなんかの公共性の概念は、アメリカではパブリック・スフィア(公共圏)という。公共的な領域、空間的な意味合いが強い。日本という国民国家の枠のなかでは、国家=官=公と考えている。しかし、今日の状況では、こういう考え方は変革されなければならない。トランスナショナルな観点に公共性の概念を展開していくべきだと。アジアとか、さらには地球全体というグローバルな観点が重要だろうと考える。
そうはいっても、極端なコスモポリタニズムのように、国民国家とかローカリティーを無視して、地球人全体といった発想では、現実的な問題に対する力は持てない。ここであるべき姿とは、思想的に多次元的なアイデンティティを構成していくこと。時間の基底に地球人というようなグローバルなアイデンティティを持ちながら、その上でアジアとか日本とかローカルな思想的なアイデンティティを持っている、構成の仕方が今後望ましいのではないかと考えています。
もうひとつ公共性の概念を、時間的にも考えるということ。普通は、生きている世代の観点から公共性を考えているが、過去の世代・将来の世代を含めて公共性のあり方を考えようということだ。日本の公共哲学の流れについていえば、もともとはリオデジャネイロの地球環境サミットを契機にして、将来世代の概念を中心にする財団が作られ、そのグループが公共哲学という概念を取り上げるようになった。公共哲学という観点から考えた場合、過去・現在・将来、その流れを意識しながら考えていく。過去世代・将来世代を意識した公共性の確立。日本の公共哲学だけではなく、海外の公共哲学においても、トランスジェネレーショナルな考え方が提起されていて、世代を超えたコミュニティ、あるいは公共性を考えるということが強調されている。とくに環境破壊問題、あるいは核問題などでは、現代世代のなかでは結論がはっきりしなくても、将来世代ではきわめて深刻な危険をおよぼすことが考えられるので、こういう世代を超えた思考は重要です。
「平和への結集」と民党連合
「平和への結集をめざす市民の風」を、一昨年はじめました。この運動は、小選挙区制を中心とする選挙制度のなかにあって、改憲への動きが高まるなかで、憲法を救う「救憲」とか、あるいは憲法を活性化する「活憲」というものが必要じゃないかと思いました。そのためには平和憲法を擁護することが重要ですが、それを目指すグループが分散しており、その上で選挙活動をおこなっては敗北必至だから、なんとか共同候補をつくっていこうとする運動です。そしてそういった連合を平和連合と呼ぼうというふうな議論を提起してきました。
私がこういう考え方を提案した思想的な背景は、公共哲学における「共」の発想です。さまざまな分断をこえて、連帯してともにやっていこうということです。市民運動とか政治運動の中にある蛸壺的なものを打破する、この問題意識が基本にあるということです。さらに友愛とかネットワークという思想も、その背景にある。
私は、親分-子分関係から研究を始めていまして、これは政治的恩顧主義論というものですが、要するに親分と子分の関係が、日本の保守政治の中核にあるということです。それは派閥であり、後援会であり、業界と官がそれなのです。そして政治とのつながりというなかにあって、それを恩顧主義という観点から分析すれば、日本は恩顧主義的政治構造としてとらえることができる。それは保守政治だけではなくて、業界とか、場合によって革新といわれるグループのなかにもあることだ。さらに国際的には、アメリカとの関係における安保条約はまさに国際的な親分・子分関係を公的に規定したものであるということがわかる。日本は、国内は恩顧主義の重層構造で成り立っていると同時にアメリカとの関係において日米の国際的な恩顧主義をなしてきたというのが、日本の政治構造であると。この構造を変革することが日本政治の課題だということを言ってきました。その構造があるがゆえに腐敗というものが繰り返しおこり、スキャンダルが起きる。防衛省の問題も、この政治腐敗問題、恩顧主義問題が露骨な形で現れている。この問題が、日米安保体制の要であり、それが防衛省をつくってきた思惑の中にある。だから、防衛省と業界の癒着問題は、日米恩顧主義という政治構造の要が象徴的な形で露見したという風に思っている。
この露見した問題に関して、政治構造を変革する方向に政治が動くかどうかということが決定的に大事だと。民主党に対する批判というものもありますが、民主党に問題はあっても、民主党を中心に連合政権というものをつくって、政権交代を実現して欲しいと思っている。
ここはやはり日本の大きな政治構造の課題だと思います。日本政治史の観点からいいますと、戦前、民党連合といったものがありました。この民党連合というのは、長い間の課題なんです。戦前議会政治ができた段階で、はじめは自由党と改進党といった急進党と中道政党があったし、その後もいろいろな変遷があります。結局、日本の政治史をみて起こったことは、与党というか官に対して民党連合で政治を変革できそうになったところで、官民連合という形が現れてくるということです。これは政党政治を実現していくという点、議会の意味をより大きくしていくという点では意味がなかったわけではない。しかし官民連合ですから、結局、民と民の力によるものではない。
大きくいうと保守と中道と急進というこの三つで、日本政治史を見ていくと、政治的な変革が起こりそうになるときに、保守と中道が連合してしまうという構図がある。あるいは場合によっては保守と急進が連合してしまう。中道と急進が手を結ばないのは、日本の政治において大きな問題をなしている。やはりここは、「急進だけで保守構造を変革することはできない」という現実を冷静に認識することが大事だ。残念ながらこれまでの日本の政治では急進の力にはこのような限界があるので、中道と急進が連合することによって、この官民連合に対するオルタナティブを提示するということが非常に大事だと思う。
案の定、自民と民主の大連立路線が出てきて、いまでは非常に危惧される。この大連立路線こそ、官民連合の典型的な路線である。この官民連合であるところの大連立路線をいかに斥けて、急進中道連合をつくって一度でも政権交代を民衆の力で実現することが大事である。これによって恩顧主義が中心になっている古い政治構造を打開するルートをつくらないと、また官民連合が現れ、いつの間にか腐敗の構造に戻るというパターンが繰り返されると思います。
「平和への結集」という観点からすれば、幸い昨年の参議院選挙によってごく近い未来の改憲というシナリオは崩れたと思いますが、次の課題として、野党連合によって政権交代を実現することがやはり重要だろうと思います。さらにその先の課題としては、本格的に思想的な軸を持った第三極をつくっていくということが必要ではないかと思います。いわば、「超党派の市民連合」あるいは「友愛の市民連合」です。その思想的なひとつの核に、公共哲学ないし友愛世界主義、さらには9条をめぐる墨守・非攻を考えることができないだろうか。こういった議論を押し進めていくことが、いま問われているんだと思います。
admin @ 1月 19, 2008