’10 6/4am 鳩山首相辞任:米官連合の勝利と友愛公共革命の行方

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小林正弥です。

普天間問題を契機に、鳩山首相が辞任しました。そこで、この地球平和公共ネットワークの有志で行った緊急声明との関連で思うところを述べておきたいと思います。

普天間問題は、日米安保に関連するために、この政権が挑んだ課題の中で、もっとも重く、かつ重要であったと思います。新政権には国内問題でも多くの課題があったわけですが、これはもっとも解決の困難な課題であったでしょう。それに早期に挑む形になったために、早期の退陣を招いたということもできるでしょう。

私は『友愛革命は可能か』(平凡社新書)において、友愛と「新しい公共」という理念から見て、この問題については沖縄の人々の意思を重視すべきであると主張しました。これは、基地問題に関しては、県外・国外移設を意味しています。

多くの皆様がご存じのように、鳩山内閣において、鳩山首相と小沢幹事長が県外・国外移設の可能性を追求していたのに対し、北沢防衛大臣・岡田外務大臣(当初は嘉手納統合案)・平野官房長官は早期から、県内案を主張していました。これらが、防衛省や外務省の意向に影響されていることは言うまでもありません。

関係官庁は、かつての日米合意に基づいて、はじめから辺野古案や県内案を考えていました。ここには、アメリカとの連携が存在しますから、これを「米官連合」と呼ぶことにしましょう。

これに対して、民意を受けた公共的な友愛政治が、米官連合を押し切って、政治主導を実現することができるかどうか、が問われていたと思います。政権内部では、関係閣僚が早々に屈してしまったのに対し、首相と幹事長という2トップが公共的な政治の威信をかけて、この堅い壁に挑んでいたと言えると思います。

昨年の年末に、米官連合は一度勝利しかかり、政権は辺野古現行案微修正に傾きました。しかし、社民党の反発によって、連立の崩壊を回避すべく、小沢幹事長ー鳩山首相は、先送りを決定しました。私は、1月の名護市市長選における県外移設派(稲嶺氏)の勝利を予想し、それによって県外移設を実現する可能性が開けたと考えました。

事実、北沢・岡田氏が早々に現行案を容認してしまったのに対し、3月末になっても首相は「極力県外」と言明し、「腹案」にも言及しました。それに対し、関係官庁や関係閣僚は、表面では反抗することができないものの、首相の意図を実現するために積極的には動かず、ただ時の経過を待って現行案に回帰するタイミングを伺っていたように見えます。

鳩山氏が「少なくとも県外」と発言し、辺野古案の「埋め立ては自然への冒涜(ぼうとく)」と言ったのは、首相の真意を表現していたと思います。両院議員総会での辞任演説でも、この真意は明瞭に表現されています。小沢氏は、社民党との連立を重視するという観点から、この点に関しては首相と同一の考え方を持っていたと思います。

そこで、右派メディアをはじめ、日米の従来の安全保障体制を維持しようとする人々は、この2トップに徹底的な攻撃を行いました。「政治とカネ」をめぐる批判や、検察などの動向は、それらの主体の一々の意図は別にして、すべてこの2トップ攻撃に利用されました。

そして、人々は、この事態を深く洞察せずに、政権批判に同調し、支持率は低下していきました。私は、メディアの無責任ないし的外れな論調と、それに影響されていく人心を悲しい思いで見ていました。このまま支持率が低下していくと、5月末に政権が危機を迎え、理念に即した基地問題の解決が不可能になるからです。

緊急声明「普天間基地問題について、沖縄県外移設方針の確定と毅然たる対米交渉を求める緊急声明」(16日公表、※)の起点は、私が4月の上旬に、混迷する普天間基地問題について、県外移設案として徳之島案が首相のいう「腹案」として浮上しつつあることを知ったことにあります。私は4月8日に、内閣内部で、県内案(特に、ホワイトビーチ案)とこの案の熾烈なせめぎあいが行われており、しかも、その決着が1週間ぐらいの間につく状勢であることを察知しました。

http://global-public-peace.net/archives/268

そこで、何としても沖縄県内案に決着することを回避するために、私たちが市民の立場からできることとして、有志声明を出すことを提案しました。もちろん、平和を志す人々の中では徳之島案にも反対して国外移設のみを主張する意見が大多数であることはわかっていました。しかし、政権内部の暗闘に外部から働きかけ、首相と幹事長の孤独な戦いを励まして、県外移設案を政府案として確定させるためには、徳之島案を容認する声明を出す必要があると考えたのです。

なぜなら、国外移設だけを主張しては、政権の決定に影響を与えることはできないからです。鳩山政権が、日米安保の見直しを主張する国民の大きな声に支えられて成立していれば、国外移設案は現実味を帯びます。けれども、社民党はごく小さな政党でしかありません。前述のような政権内部の状況を考えれば、国外移設だけを主張しても、1週間以内に迫った政府案に影響を与えるとは思えませんでした。

そこで、私は理想主義的現実主義という観点から、県外移設の可能性を追求する声明を提案しました。ここには、県外・国外移設を実現するという千載一遇のチャンスがまだ存在すると思ったからです。逆に言えば、日本の政治状況と政権内部の動向からして、首相が県外移設の可能性を断念すれば、あとは、国外移設への道が開けるのではなく、逆に政権が沖縄県内案に収斂することは不可避だと思っていました。残念ながら、この見通しは当たってしまいました。

私にしても、徳之島への移設がすぐに実現すると思っていたわけではありません。声明の目的は、県外・国外移設案を政府案として確定させ、毅然たる対米交渉を行うようにすること、そしてそれを民主党マニフェストに盛り込んで、参院選後に県外・国外移設を最大限追求することができるようにすることにありました。言い換えれば、連立政権が5月危機を乗り越えて、粘り強く県外・国外移設を追求することが可能になるような提案を行ったのです。

この声明は、案の定、いわゆる平和主義の人々からは不評で、「ついに彼は御用学者になってしまった」という陰口もあったようです。しかし、その後の経緯を見れば、「ここで県外移設案を政府案として確定してマニフェストに盛り込むことが、いかに重要だったか」ということは、多くの方々にもおわかりいうただけるのではないか、と思います。

声明公表時点では、一時的にはその主張は実現したように見えました。毎日新聞の優れた検証記事(5月31日)によれば、4月8日に、徳之島案を提案した牧野聖修議員が首相に「一体どうするつもりですか」と迫ると、首相は「徳之島で頑張りたい」と言明し、平野官房長官が「自分が動く」と言ったそうです。平野氏の推進したホワイトビーチ案がアメリカに否定されたために、官邸は徳之島案に一本化されました。そして、訪米前の11日、12日に「普天間問題は日米の共同責任だ。分かち合ってもらえないのなら普天間から出て行ってもらうしかない」と首相は平野氏に公邸で決意を述べて、アメリカを説得する気概を示したということです。この段階において、官邸は、「県外移設案を決めて、毅然たる対米交渉を行う」という私たちの有志声明通りの姿勢で臨んでいたということになります。

しかし、残念ながら、その毅然たる姿勢はまもなく砕け散ります。まず、13日のオバマ大統領との非公式会談などでアメリカは強硬な
姿勢を示しました。また、18日の徳之島の大規模反対集会。そして、メディアは、アメリカ側の要求を当然のものと捉えて政権を批判したり、徳之島の「民意」を根拠として批判しました。右派系メディアのみならず、左右を問わず大新聞は一様に政権を批判したと言っても過言ではないでしょう。

アメリカの反対と徳之島住民の反対は全く無関係ではありません。なぜなら、徳之島において、早々から自民党と共産党が反対運動を推進していたからです。共産党の反対は別にして、自民党の反対は、民主党政権を窮地に陥れるための党利党略です。なぜなら、自民党こそが、アメリカとの安全保障体制を維持するために、沖縄の基地を永年固定化してきた張本人だからです。

本来、徳之島案を推進するためには、この案が提案された2009年10月下旬以後、早々に政府案を決めて人々に説明する必要がありました。しかし、この4月の時点では反対運動が広がってしまっており、この中で実現するのは困難になってしまっていました。
この間、有効な手を打たなかった首相周辺の人々の責任は大きいと言わざるを得ません。その人々は、実際には県内案を推進していたために、県外移設案の実現に向かって動かなかったのです。

アメリカ、徳之島住民、そして国内メディアの一様な反対という反対の大合唱にあって、政権は県外移設をあきらめて、県内案に転回してしまいます。防衛官僚、外務官僚が復権し、その主導のもとで、関係閣僚に説得され、遂に首相もアメリカに妥協して辺野古案に同意してしまいます。

4月20日の時点で、首相が(県外移設は断念しつつあったものの)まだ辺野古の明記には躊躇していたのに対し、外相・官房長官・沖縄北方担当相(前原)との協議で、防衛大臣は「総理、なぜ腹を固められないのですか!」と机を叩いて怒声を浴びせたということです。これに首相は黙って頷き、23日に関係閣僚が動き、岡田外相がルース大使に対して現行案の微修正にするという方針を伝えたということです(東京新聞、5月28日)。

この後でも、首相は4月28日に徳田虎雄元衆議院議員と会って徳之島移転案を説明しています。首相が最終的に県外移設を断念したのは、5月3日の沖縄訪問直前のようです。

こうして、徳之島には訓練の一部移転をするとしているものの、中心は辺野古となります。はじめは環境に配慮したくい打ち桟橋方式を政府案の骨格とした(5月10日)ものの、それもアメリカに拒否され、ついにはもともとの案に近い日米合意(5月28日)となってしまいました。

当然、社民党はそれに反発して福島党首の罷免、そして社民党の政権離脱となり、その結果、民主党内部で批判が強まり、政権崩壊(6月2日)となってしまいます。

首相自らが県外移設を断念し、その理念に反する決定をしてしまったのですから、この結果は止むをえないと私も思います。もし私が首相の立場にあれば、アメリカの反対や関係閣僚の反発、そしてメディアの非難にあっても、死んでも屈せずに、県外移設を追求し続ける道を選んだでしょう。そうすれば当然、5月に決着することはできず、メディアの非難は囂々たるものになったはずです。でも、その結果、参院選挙を戦うことができなくなって辞任を余儀なくされたとしても、理念を貫いて、県外・国外移設の可能性を今後に残すことができます。

結果的に辞任することになるならば、首相にはそのような道を選んで欲しかったと思います。もしかすると、首相自身も今ではそのように思っているかもしれません。そのような道を取ることができなかったのは、理念を貫く覚悟において、まだ首相に、人間としての弱さが残っていたからだ、と言わざるを得ないでしょう。

でも、同時に思うのです。アメリカに対して毅然たる姿勢を貫いて、県外移設という大事業を実現するためには、関係閣僚の一致団結した協力と、大きな民意の支援が不可欠です。アメリカの意向に抵抗し続けて県外・国外移設を実現することは、国民の大きな支持が背景にあって初めて可能でしょう。もし政府が県外移設案を早期に決定して、関係閣僚が全力でその目標を追求し、メディアや国民の多くがそれを支持すれば、首相はその理念を貫くことができたでしょう。少なくとも、沖縄県内移設や辺野古案への回帰は断固斥けることができたはずです。

ところが、支持率の急低下によって、参院選挙で惨敗する危険性が高まってきたために、政権は妥協の道を選んでしまいました。その結果、政権は崩壊することになりましたが、同時に辺野古を明記した日米合意が残ってしまいました。

後継の民主党政権がこの合意を破棄することができるかどうか。私は、それを疑わしく思っています。アメリカは後継政権に合意の履行を迫っていますし、後継政権も火中の栗を拾うことはしたくないでしょう。後継政権が辺野古案の強行をしないことを願っていますが、日米合意を覆して、県外・国外移設を実現するためには、相当の時間を要するのではないか、と恐れています。現在の時点で県外・国外移設を実現するという千載一遇のチャンスは、ひとまず去ってしまったように見えるのです。

帰するところ、普天間基地問題に関して、鳩山政権は、首相が(幹事長の支持のもとで)県外移設を追求し続けたために、それに反対する官僚とメディア、そして非協力的な関係閣僚の抵抗にあって、理想の実現に失敗し、崩壊しました。政治主導という理想を実現しようとした2トップが、アメリカと官僚という米官連合に敗れ、二人揃って辞任に追い込まれたわけです。米官連合は、民意を受けた公共的な友愛政治を撃破することに成功しました。「米官連合の勝利と友愛公共政治の挫折」と言わざるを得ません。

この敗北は、直接には政権の責任、そして最終的には首相の責任です。そして、官に同調して政権崩壊に至る愚を犯したという点で、関係閣僚の責任は非常に重いと思います。

でも、同時に、このような結果を招いた原因の多くは、メディアの報道姿勢と、それに惑わされた国民の多くにもあると思うのです。もし、本当に日米安保体制の変更や、県外・国外移設を実現しようとするならば、平和を志す人々は、この点を真剣にみつめなければならないと思います。ここには、今後の平和運動への示唆があるのではないでしょうか。

現実の状況から見て、とうてい実現可能性のない理想主義的主張だけをし続けて、実現可能性のある政策を批判すること(理想主義的理想主義)は、理想の実現ではなく、それとは正反対の方向へと政治を向かわせてしまいます。仮に、平和主義的な姿勢を持つメディアが、県外移設案に好意的な報道をして、平和主義者たちがそれを好意的に見れば、政権はあくまでも県外移設を追求することができたと思われますし、少なくとも県内案、さらには辺野古案に回帰することはなかったと思います。私は、ここから教訓を引き出し、理想主義的現実主義の重要性を確認したいと思います。

すでに時遅しとはいえ、最終段階で、首相は全国の知事を招集して、沖縄の基地負担を軽減するために、他の地域が負担を分かち合うことを考慮するように求めました。友愛の理念は、便益の分かち合いだけではなく、負担や犠牲の分かち合いをも意味します。このような呼びかけや問題提起は、もっと早期にすれば、非常に大きな意味を持ったことでしょう。それでも、この試みは、今後に大きな問題提起をするという遺産となることができるように思います。

日米合意に辺野古が明記されたとはいえ、現地の反対や沖縄の人々の反対によって、それを強行することは容易ではありません。ここに、私たちのチャンスがあります。基地移設問題、そしてさらには日米安全保障体制そのものについて、国民全体での熟議のプロセスを巻き起こしていくこと。これができれば、鳩山内閣の試みとその失敗も、将来に生きることになるでしょう。

鳩山首相は、両院議員総会において辞職を告げる感動的なスピーチで、「私は本当に、沖縄の外にできる限り米軍の基地を移すために努力をしなければいけない。いままでのように沖縄の中に基地を求めることが当たり前じゃないだろうと、その思いで半年間努力してきたが、結果として県外にはなかなか届かなかった。…米国に依存し続ける安全保障、これから50年、100年続けていいとは思わない。鳩山がなんとしても、少しでも県外にと思ってきたその思いをご理解願えればと思っている。その中に、私は今回の普天間の本質が宿っていると思っている。
いつか、私の時代は無理だが、あなた方の時代に日本の平和をもっと日本人自身でしっかりと見つめていくことができるような、そんな環境をつくること。現在の日米の同盟の重要性はいうまでもないが、一方でそのことも模索していただきたい」(要約)と述べました。

つまり、日米安保をどうするかという根本問題がこの基地移設問題の背後にあるということです。「常時駐留なき安保」をかつて唱えた鳩山首相だからこそ、現時点において県外移設を追求したのです。この箇所には自主防衛論の雰囲気もあり、私はそれに与する者ではありません。しかし、友愛革命は、安全保障の根本問題にまで及ぶ射程を本来、持っているということを確認しておくべきでしょう。

残念ながら、政治的な友愛革命の第1局面は、このようにして終了しました。民主党後継政権は友愛の理念を継承することはないでしょう。せめて、「新しい公共」の理念は継承することを期待していますが、それも必ずしも定かではありません。果たして、次期政権が友愛公共革命の理念を部分的にでも継承して第2局面となりうるかどうか。まずはそれを注視する必要があるでしょう。

でも、私がもともと主張していた通り、友愛革命は、一政権や一政党を超えて、段階的に展開してゆくべきものです。ですから、私たちは第1局面の起承転結から学びべきものを学び、来たるべき第2局面へと進んでいかなければなりません。

そのためには、まずは国民とメディアの意識改革が不可欠でしょう。政治のダイナミズムによって、いかに理想を掲げる政権が成立しても、人々やメディアの意識がそれに追いつかなければ、理想を実現することは難しいからです。

鳩山首相が民主党両院議員総会で「国民の皆さんが、徐々に徐々に聞く耳を持たなくなっていってしまった、そのことは残念でなりませんし、まさにそれは、私の不徳のいたすところ、そのように思っています。」と述べたことを、麻生元首相が批判したということですが、麻生内閣末期とは次元の違う問題でしょう。私はここには真実が宿っていると思います。鳩山内閣の政治的アートの限界(=不徳)により、その掲げる理想主義的政策を人々が信じなくなってしまった。この結果、メディアでは、「そもそも県外・国外移設という非現実的政策を追求したことが間違えだった。これからは現実的政策を掲げるべきだ」という論評が大々的に行われています。

これに対して、理念は理念として展開を続け、次なる器(政治家)において、その理念の実現に向けて歩むと思います。私たちの努力により、友愛公共革命における、この次なる局面がなるべく早く現れることを念願したいと思います。

※菅政権の成立の前、6月4日の午前中にMLで流された文章である。

admin @ 6月 4, 2010

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